2020年5月27日(水)
『神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。』エペソ人への手紙2章6節~7節
主ご自身が私たちを追い求めてくださっている!
いったい誰が主のように、私たちのあとを追ってくれるだろうか。
主をその玉座の高さで計るとしたら、主は私たちから実に遠くにおられる。
あるいは、聖なる性質の深さによって計るのがいいだろうか。
この性質は人間の内にも植えつけられていて(それは、堕落したにもかかわらず、今でも人間の内に見ることができる)、自己を犠牲にする愛の力を与えてくれる。
それでも、創造主のご性質をほんのわずかに映し出すものにすぎないのだが。
主は、私たちのために成し遂げた偉大なみわざの栄光によって私たちの心を得られたが、主がご自身の代わりにそれを行うように託された人間がほかにいるだろうか。
いや、ありえない!
そしてこのみわざが、被造物の単なる片隅で局地的に行われたのではなく、権威と力とを備えた御使いたちの見ている前で行われたのであって、「キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため」のものだということを私たちが理解するならば、これを行うことは主ご自身以外には絶対に不可能なことである。
そしてこれが神の顕現ではなく、単なる被造物の現れであるとは絶対にありえないことである。
ああ、すべてのものの中心である栄光の神の、いかにまだ知られていないことか!
「万物は御子によって造られ、御子のために造られました」とはキリストのことを述べている。
こうしたみことばは、どんな直接的な表現よりも肯定的にキリストの神性を断言している。
単なる被造物が、あるいは二流の神が宇宙の中心となって、宇宙がその周りを回るなどとはとうてい想像しがたいことだ!
それでは、天地創造の記述に戻ってみよう。
ヨハネの福音書1章1節、2節が断言しているように、神であり、神とともにおられるお方についての記述が今はなんと自然に読めることだろう。
神は仰せられた。
『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』。
あるいは、ふたたび前に目を向け、導かれるままにあのイザヤの預言書の箇所に思いを馳せよう。
まず最初にキリストの称号について見てみると、一般的な聖書の翻訳では「永遠の父」であるが、ヘブル語聖書と英語の改訂版聖書の欄外註では「永遠なるものの父」となっている。
すなわち、初めに万物を創造したお方が、最後に万物に、その最終的な姿をお与えになるのである。
こうして私たちは、宇宙の中心には宇宙を支配し、一つにまとめる『力』(それは「万物は御子にあって成り立っています」のみことばどおり、またしても主に当てはまる)があるだけではなく、『心』もあることを理解する。
その心は、今や愛なる神の愛する子として明らかにされた道徳的な力だと完全に明言されている。
そのことは神の受肉と贖罪とにおいて、私たちに語られている。
それ以外のものはありえない。
それは太陽となった衛星のことではなく、光を拡散するっ太陽そのものである。
そう、すべての太陽の中の太陽である。
F・W・グラント
私は次の結論に達した。
すなわち、キリストを伝えれば伝えるほど、神からの助けを期待できるということだ。
キリストを高く上げることは、神のみこころと深くふれあうことである。
これは天の国における私たちの、唯一の過ごし方となるだろう。
エドワード・デネット
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