2020年5月24日(日)の手紙

2020年5月24日(日)


『それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。』出エジプト記24章9節~11節


日々の生活の重圧の中で、強力な『思い出させてくださる聖なる方』である聖霊にゆだねて、すべてのことを思い出し、神を意識するように喚起していただこう。

人生には、どんなにささいでありふれたことでも、私たちの本分である義務や奉仕として神に対して行うことによって高められない務めは一つもない。
これはまさにすべての人生を、高潔で幸いな高みに引き上げる秘訣なのである。

すべてのことを主イエスのために行うこと、どんな人間関係の背後にも主が立っておられるのを見ること、もっとも卑しくうんざりするようなことを行うこと(これは主がご自分に対する奉仕だとみなして、報いてくださる)、これがクリスチャン人生であり、このことによって神の臨在が実際のものとなり、このおかげで部屋の掃除も偉大なものになるのである。

同じようにくつろいでいる時にも、常に主を前に置くことができる。

イスラエルの長老たちについて語られていることを思い出してみよう。
彼らは「イスラエルの神を見た。
御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあった……彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした」。

なんと多くの人が、神を見ることなしに飲み食いをしていることだろう!
なんと多くの人が、良心の阿責を感じながら、飲み食いする勇気もなく神を見上げていることだろう!

もっとも幸せな者は、主に在って安心しているので、人生のさまざまなことをためらわずに行う人たちだ。
その間もずっと彼らは、主が自分の手や足よりも近くに、呼吸よりも近くにおられることをわかっているのだ。
神が私たちの内におられるのを感じるので、慎みのなさや軽率さ、わがままや過度の飲食が抑制され、自然で無垢なすべてのものに対する新たな興味が与えられるのである。

F・B・マイアー


キリスト教の驚くべき特徴は、クリスチャンにとって大きすぎたり高すぎたりすることは一つとしてなく、神にとって小さすぎたり低すぎることは何一つない、ということだ。

神は、信徒の日々の働きのように単純でささいな責務すら心にかけておられ、信徒たちから搾り取ろうなどとはなさらない。
キリストと一つになることが、すべての鍵を握っている。

もしも恵みによって私が御子と一つであるなら、父なる神が喜んで私にみこころと思いを開いてくださることは、何も驚くにはあたらないのである。

ウィリアム・ケリー


両手を神に上げて祈ることは、神に栄光を帰するものだ。
しかし、堆肥の熊手を手にした男や、家畜の餌を入れたバケツを持った女性もまた、神に栄光を帰するのである。

神はかぎりなく偉大なお方だから、あなたが神に栄光を帰そうと意図して行うことは、すべて神に栄光を帰するのだ。
だから兄弟たちよ、あなたがたもそのように生きようではないか!

ジェラード・マンリー・ホプキンズ


a:78 t:1 y:0