2020年5月23日(土)の手紙

2020年5月23日(土)


『こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』ローマ人への手紙8章1節


神は義の贈り物について人の働きとは切り離して語っておられるのに、なぜあなたは、自分の悪しき働きや失敗のことで嘆きつづけているのか。

その失敗に落胆したり、打ちひしがれたりするのは、そうした自分の働きについて、あなたが今でも希望をもっているからだということがわからないのだろうか。

もしもあなたが、神はご自分を信じる不敬虔な者たちを義とみなされることを真にわかって信じるなら、「よくなろう」とする自分のあがきを疎ましく思うようになるだろう。

なぜならよき働きをしようというあなたの夢は、あなたのことを神にまったく推挙してはくれないばかりか、悪しき働きはあなたが神を信じること(それこそが不敬虔な者たちを義とするのだ)を少しも妨げはしない、ということがわかってくるからである。

だから、自分の失敗を見たらすぐにあなたはこう言うべきだ。
「私は落伍者以外の何者でもない。
けれど神さまは、私の働きがよかろうと悪かろうと、それとはまったく関係ないほかの原則で私を扱ってくださっている。

私の働きに関わるものではなく、ただ私に対するキリストのお働きだけに基づく原則によって、私は神さまに喜んでいただいて、神の御霊霊に満たされたいと切に望んでいるが、これらのことによって義と認められることはまったくない。

神さまが私を義とされたのは、キリストが私のために血を流してくださったことにのみ100パーセントよるものなのだ」と。

そのため、私は次にあげるように二重の姿勢をとっている。
一つは、キリストは私のために天の国の神の前におられること、そして私はキリストが成就されたみわざの代価によって神の前に立つこと、神が見ておられるのは、ほかのどの場所でもない、この死んで葬られ、よみがえられたキリストの内にある私だということ、神の恩恵はキリストを通して私に向けられたもので、無限であり永遠であることを知っている、ということだ。

そして二つ目は次のようなものだ。
すなわち、私の内におられる聖霊の働きに対する私の姿勢は、真理に向かって導かれ、真理に従順であり、不従順な場合は神に懲らしめてほしい、聖霊によって祈り、聖霊とともに歩み、みことばと信徒たち、そしてすべての人々に対する愛に満たされたい、という願いである。

だからといって、それで義と認められているわけではありません。
私は神から“罪人として義とされたのであって、聖徒として義と認められたわけではない。
私の聖徒らしさが神からの義認を増すこともないし、……ああ、神を褒めたたえよ!
私の失敗がそれを減らすこともないのである。

ウィリアム・R・ニューウェル


もしも神に対する私の姿勢が何らかの形で、神の私に対する姿勢に影響を与えると考えるなら、私は縛られたような恐怖感でいっぱいになるだろう。

けれど神の私に対する姿勢は100パーセント、神が神であられることの結果であり、私がどのようなものであるかということを完全に知っておられるにもかかわらず、このようにしてくださることを目にするとき、それは私の心を自由に向かう正しい方向に導いてくれるのだ。

C・A・コーツ


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