2020年5月10日(日)の手紙

2020年5月10日(日)


『ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。』ガラテヤ人への手紙3章28節


クリスチャンが自分の死は、キリストとともに死んで成し遂げられた完成したみわざであるという事実を把握すればするほど、聖霊は効果的にその人の内に働いて、その完成されたみわざを現実のものとしてくださいます。

もちろんこれには、罪深い本性のすべての働きから離れることにためらわずに同意する、また聖霊に積極的に協力して自分の死すべき身体が罪に支配されるのを拒否する、という条件が付いています。

十字架は、救い主であるキリストに向かっていくすべての人にとって、新たな創造が行われる誕生の地ですが、もっと広い意味では、キリストとキリストのからだの各器官からなる「新しい人」の生誕地でもあります。

それぞれの人生において新たな被造物となるそれぞれの器官は、ともに練られてキリストをかしらとするからだ(教会)を形づくる多くの構成単位の一つとなるのです。

すべてが一つのいのちにあずかり、「一つの御霊を飲み」、「からだ全体は…それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」。

十字架によって、堕落した被造物の分裂した状態はすべて終わりました。
国籍や宗派による区別はもはや分裂をもたらすものではなく、この世的な物事を外面的に秩序立てるものの一部であって、それらはうわべだけのことで一時的です。

なぜなら、神に創造された「新しい人」は、キリストに在る領域において、その人の中で新たにされていくからです。「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、ギリシャ人も、奴隷も自由人もありません。
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」。

そしてまた、そこには「男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」。
それはつまり …神に栄光あれ!… 外面的で一時的な区別は、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」キリストに在る領域には決して立ち入ることはできないからです。

クリスチャンが、自分の死をキリストの死において経験的に実際に理解し、キリストのからだにおける自分の場所… 私たちはキリストのからだの一部であると同時に、ほかの人のからだの一部でもあることを学ぶとき、キリストに在る内なるいのちの集まりが壊れずに保たれるのです。

カルバリを一致の中心であり基盤とすることで、たとえ、キリストの器官であるほかの仲間が、私たちの証ししている真理をまだ理解していないからといって、そのキリストの器官は、誰ひとり敵としてみなされることはありません。

キリストのすべての器官が、十字架上の死において自分自身も死んだことを見るとき、罪に対して死んだだけではなく、古い人のキリスト教に属していたすべてのものに対しても死んだことを見ることができるとき、よみがえって天に昇られた頭であるキリストにおいて一つとなった人々と、実際に本当に一つとなっていることがわかるのです。

ジェシー・ペン=ルイス


ひたすら、このことをめざそうではないか。
すなわち、互いの内にキリストを見ること。
互いの内に古い性質ではなく、よみがえられたイエスのいのちを見ることだ。

もし私たちが互いの内にキリストを認めようと努めるなら、どれほど互いに引き寄せあうことだろうか!

ジョージ・ミュラー


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