2020年4月29日(水)
『私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。』コリント人への手紙第二5章7節
行動を支配している法則は二つしかない。
「見る」ことと「信仰」だ。
見ることは生来の感覚を導く法則だが、信仰は啓発されたたましいを導く法則である。
見ることはこの世の知恵だが、信仰は天の知恵である。
見ることの地平線の高さは山々の頂だが、信仰はどこまでも遠く、どこまでも広がる空の輪郭を備えている。
自これらの行動の法則は正反対なので、互いに相容れない。
見ることの対象は物質で目に見えるものだが、信仰の対象は霊的で目には見えない。
見ることは、現在のものだけが存在していると断言するが、信仰は現在の存在を未来の事柄に明け渡す。
私たち一人ひとりの人生はこれらの法則のどちらか一つに支配されているが、誰もその両方に同時に支配されることはない。
火と水のようにお互いに相容れるところはまるでない。
光と闇のように、お互いに共存できないのだ。
この世の行動の法則は見ることだが、クリスチャンの行動の法則は信仰である。
クリスチャンにとってすばらしい日々とは信仰が支配する日々であり、悲しく悪しき日とは見ることが支配している日々だ。
私たちはこのことをよくわかっているので、これらのことについて語っていると、さまざまな記憶が一気によみがえってきて、おそらく次のように言うことだろう。
ああ、遠い昔に消え去った歳月を飛びこえて
戻ることができたなら、
あの言葉を口にせず、
あの行為を行わないように、
誤りを取り消し、
深い影を消し去ることができたなら。
喜びの内に新たな人生が始められるだろうに。
私たちは、信仰ではなく見ることの法則によって導かれてきたために、無駄にした日々と悲しむべき失敗のことを思う。
この葛藤は私たちが現在の状態にいるかぎり続く。
この世にいるかぎり、この見ることの法則から逃れられるときは絶対に来ない。
だが信仰の法則が強くなればなるほど、見ることの法則は弱くなっていくはずだ。
アーネスト・レイモンド著の『アッシジの聖フランチェスコの生涯』の中で、レイモンドはフランチェスコ会の修道士エリアスとフランチェスコの二人について一章を費やしている。
エリアスは地位と力、職と人気を求めた。
フランチェスコ修道士はこれらのものはいっさい望まずに、小鳥たちに囲まれて、そのさえずりに耳をすませ、話しかけることを好んだ。
また貧しい人々に囲まれて、彼らに説教を行うことを好んだ。
フランチェスコ自身、貧しかった。
何もかもいっさいを打ち棄てていたからだ。
今日、この二人はどのように考えられているだろう。
ここで誰か、エリアス修道士のことを耳にした者はいるだろうか。
しかし、アッシジのフランチェスコについてはどうだろう!
彼の思い出と記念の場所を訪ねて多くの人が長い旅をしてきた。
私たちはみな、彼のことを聞き、彼について読んできた。
それはなぜか。
一人は見ることに導かれることを選び、もう一人は信仰に導かれることを選んだからだ。
そして一方は失敗したが、もう一方は成功したのである。
W・グラハム・スクロギー
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