2020年4月2日(木)の手紙

2020年4月2日(木)


『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』コリント人への手紙第一10章31節


もしも人生のすべてを主の支配に明け渡し、この世的な自尊心と養沢とを一つ残らず棄てて、自己の欲求を満足させることをあきらめると、そこには禁欲主義の危険性が生じる。

おそらく、私たちがすべてを主に明け渡したとき、高価な衣服や宝石や美食にふけることは、手放すべきものの一つであっただろう。

これらのものではなく、主に新たな喜びを見出すにつれて、私たちは神のみこころを超えて、神の栄光を汚す禁欲主義へと駆り立てられる可能性があるのだ。

すすべてを主に明け渡したクリスチャンで、着るものや外見に無頓着になり、この思い違いのために実際にほかの人々に不快感を与える間違いを犯してきた者は一人にとどまらない。

また私たちは、宝石で賛沢をする罪から救い出されたあと、自分の持っている金や銀は譲るか売るかして、その収益は直接、主の御用のためにささげられるべきだという思い込みに駆り立てられることがある。

これは神のみこころの範囲を超えるものだ。
実際に、この残念ながら間違った禁欲主義のもとに自分の結婚指輪を売ってしまったクリスチャンの女性もいる。
その精神は賞賛に値するが、その導きもその結果も必ずしも神によるものではない。

私たちは禁欲主義と奢侈との間の絶妙な中庸を維持しなければならない。
同胞の目に魅力的に映るように、自分の外見や清潔さ、服装に注意を払う必要がある。

それは装いと身なりのどちらも魅力的なクリスチャンになるという肯定的な責務である。
私たちが他の人々の心を捕らえて主へと導くことができるように、まず彼らの心を勝ち取れるようにするためだ。

私たちはすべてのことを、神に栄光を帰するために行わなければならないのである。

もう一つ、クリスチャンの間によくある禁欲主義は、難しいことと容易なことがあってどちらかを選ばなければならない場合、難しいほうが常に神のみこころなのだと誤って思いこんでしまうことだ。

神のみこころはまったく逆かもしれない。
困難には必ずしも徳があるとはかぎらず、たやすいことに必ずしも罪があるわけではない。

私たちの前に問題が持ち出されるたびに唯一問わなければならないのは、その一つひとつについて、何が私たちに対する神のみこころなのか、ということなのだ。

チャールズ・G・トランブル


これが真の極致である・・・奴隷のように罰を恐れるゆえに邪な生活を避けるのではない。
もしくは、あたかも何かの事務的な協定にのっとって、高潔な生活を利用することによって報酬を求めるために善を行うのでもない。

それどころか、自分たちが望み、自分たちに約束されたこれらすべてのものに、我々は重きを置かない。
代わりに、神との親交を失うことをただ一つの恐ろしきこととして重要視している。
そして神の友であることを、名誉と我々の願いに値する唯一の真実なものとみなしているのだ。

繰り返すが、これが人生の極致である。

ニュッサのグレゴリウス


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