2020年4月18日(土)の手紙

2020年4月18日(土)


『私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。』雅歌2章16節


主に没頭し、その圧倒的なすばらしさに呑みこまれ、愛の炎となって常に主のもとに昇りつづける生ける供え物として自分自身をささげることは、なんという無限の喜びであろうか。

たましいは、確かな喜びと堅固な楽しみを知ることは決してない。
ひとたび自分自身に嫌気がさして、社会的な規範をいっさい打ち棄て、その創造主に自分自身をゆだねて自分が神聖化された献身的な存在になったと感じ、内なる意識と感情から「私の愛する方は私のもの」と言えるようになるまでは。

その方の関心はすべて私自身のものとなり、「私はあの方のもの」となる。
私はあの方にとって何がしかのものとなるだけで満足し、自分のことは気にしないが、あの方に仕えられるかどうかは気にかかる。

このような性格に形作られた人は、すべての神の摂理による秩序に喜びを見出すだろう。
この世の楽しみについても、その中に神によるすばらしさを味わい、それを最愛の主であり創造主である方から与えられた愛のしるしと見なすとき、楽しみ味わうことができるだろうし、懲罰も、嬉しいことではなく辛いことだが、このことによってその棘を失い、「杖」と同様に「むち」も「慰め」となるだろう。

自分を懲らしめる手に口づけをして、その過酷さから甘やかさを集める。
いや、それどころか、その人は、神が自分のような無価値で愚かな被造物の意思を行うことなく、神ご自身のみこころを行い、神が勝ち取った目的を果たされたことを喜ぶだろう。

それは明らかに自分の目的よりもずっと神聖で賢明なものだからだ。

ヘンリー・スクーガル


キリストの内に在る者に対する神の慈しみは限りがない。

ウィリアム・R・ニューウェル


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