2020年3月5日(木)の手紙

2020年3月5日(木)


『私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。』ローマ人への手紙6章5節


私たちが、単なる模倣者として、主の生涯を自分の内で再現しようと試みるとき、私たちは自分の経験を誤解してしまう。
主が悲しむように命じておられるときに喜んだり、私たちが「主にあって喜ぶ」ことを主が望まれるときに悲しみを抱いたりする。

私たちは季節外れの勝利の実を求めて手を伸ばす。
しかし、そのときにもっと必要なのは、神の力が私たちの「弱さのうちに完全に現れる」ために、敗北の訓練を耐えなければならないことなのだ。

神が私たちの葉を緑に生い茂らせたいと思うときに、私たちの葉は黄色く、もの悲しげに萎れてしまう。
私たちが「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行って」いるのは、力を真にしっかりと捕らえてはいないからだ。

キリストの似姿を、主とは切り離して求めようとするのではなく、自分がすでにキリスト「と同じようになって、キリストと一つになっている」ことを理解する者は幸いである。

A・J・ゴードン


真理がキリストなのではなく、キリストが真理なのだ。
キリストを心に迎えなくても、真理を得ることはできる。
だがキリストを心に迎えれば、あなたは真理と、その真理から流れ出るすべての力を得るはずだ。

主が真理であるからだ。

エドワード・デネット


クリスチャンの経験とは、キリストを経験することにほかならない。
クリスチャンの経験が深くなればなるほど、キリストを経験することも深まっていく。

可能なかぎり十分なクリスチャンの経験は、キリストを可能なかぎり十分に経験することである。
その経験こそがキリストであり、主に代わるものはいっさいない。

ロコン・C・カー


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