2020年3月4日(水)の手紙

2020年3月4日(水)


『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』ヨハネの福音書8章11節


ある日、ナイジェリア人の伝道者が会衆にローマ人への手紙6章について説いていた。

彼は6章1節を引用した。
「それではどのように言うべきでしょうか。
恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか」。

会衆はほとんど全員が、生まれてから一度も靴を履いたことがない人たちだった。
子どもたちも岩だらけの野原や道を飛ぶように走る。
棘のある植物の多い地方なので、言うまでもなく、誰の足もいつかは棘に刺されてしまうのだ。

誰もが強く願っていたことの一つが、市場で売られているスチール製の棘抜きを手に入れることだった。
それは、足に刺さったどんな棘でも木の破片でも取り除くのにとても便利だったからだ。
伝道者は、そのとげ抜きがどうしても欲しくてお金を貯めてやっとそれを買った人のことを語ってきかせた。

伝道者は会衆に訳ねた。
「そして彼はこう叫んだのでしょうか。
『これでもう棘だらけの道を、何の傷も負わずに走ることができるぞ。
前とはえらい違いだ。
また足に棘が刺さっても、この棘抜きで抜くことができるんだから」。

そして彼はこう結んだ。
「『それではどのように言うべきでしょうか』。
私たちを刺し貫く棘を取り除く棘抜きを使うために、私たちは棘の上を自由に歩きつづけるべきでしょうか。
そんなことは断じてありません!」
なぜなら、棘でできた傷は化膿することがあり、傷跡が残る可能性があって、私たちの歩みを不自由にするかもしれないからだ。
実にとんでもないことだ!

「というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです」。
私たちの罪の懲罰のための牢獄の壁に赦しを描いた愛が、私たちを捕らえている。
同じ声が今日、私たちに語りかける。

「わたしもあなたにさばきを下さない。
行きなさい。
これからは、決して罪を犯してはなりません」

ドナルド・グレイ・バーンハウス


福音が私たちのすべてを要求しているのは確かだ。
だがそのすべてを求める全般的な要求を、私たちは個々のあらゆることへの要求に縮小してしまったのではないかと恐れている。

私たちは律法に縛られてはいない。
それは間違いないが、そのことは私たちの完全な従順さを弱め、豊かに与えることをやめさせるものではない。

むしろ、律法のすべての要求が解決されたあと、律法が要求する以上のことを行うことに、新たな性質が喜びを見出すのではないだろうか。
私たちはもっともっと、主に召された働きを豊かに行おうではないか。

ジョージ・ミュラー


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