2020年3月3日(火)の手紙

2020年3月3日(火)


『また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」主人は言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」マタイの福音書20章6節~7節


神が私たちに望んでおられるのは、何もせずに立っているのではなく、仕事をすることである。

この聖句が語っているのは、神にはご自分が定められた労働の場…ぶどう園があるということだ。
ことによるとあなたは、自分はとても忙しくて暇な時間はまったくない、と言うかもしれない。
だがあなたがそんなに忙しいのは、いったい「どこ」でなのか。
もしもぶどう園で働いていないのなら、それは「何もしないで……立っている」のとどう違うのか。

あなたが神のみこころによって生きていないのなら、神の目には何もしないで立っている者に見えるだろう。
あなたがどんなにほかの仕事をたくさん行ってきたとしてもだ。

あるいは、もしかするとあなたはいわゆる霊的な仕事に忙しく携わっているかもしれない。
それでも神はこうおっしゃるだろう。
「なぜ、あなたは何もしないで立っているのか。
このぶどう園の外でなされる仕事はわたしのものではない」と。

あなたは非常に忙しくしているかもしれないが、それでもなお、神の目には何も仕事をしていないのである。
ぶどう園の中で行われる仕事だけが神に認められる。
そうした働きは、神によって神のために生まれたものだ。

もしもあなたの働きが神のみこころの外で行われているのであれば、それに費やしてきたすべての日々は、あなたを何もしないで立っている者にしただけだと、神は思われるだろう。

「一日中」は、一生を指している。
あなたはどうだろう。
一日中、何もしないで立っているのだろうか。
それともぶどう園で働いているだろうか。

誤解しないでほしいが、私は、あなたが今の仕事をやめて伝道するべきだと勧めているわけではない。
もっとも重要なのは、私たちが何をするにしても神のみこころによっていることを明らかにしなければならない、ということである。

ぶどう園で働くということは、神のみこころによって働いていることを意味する。
そして神のみこころのぶどう園には、あらゆる種類の労働がある。

ある者は土を掘り起こし、ある者は種をまき、ある者は手入れをしている。
どんな仕事をしていようと、それがぶどう園のためになされるなら認められる。

だから私たちは、ある特定の人々によってなされる特定の歩みや働きだけが神の仕事だと限定的に考える必要はないのだ。
いや、その日々がぶどう園の中で費やされるかぎり、すべての働き手が神の心に留められるはずだからだ。

ウォッチマン・ニー


私は贖いの時を熱望している。
なぜなら、そこには聖い従順な人生のすべてが含まれているからだ。

リチャード・バクスター


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