2020年3月16日(月)の手紙

2020年3月16日(月)


『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ人への手紙2章20節


超自然的な変化で始まった真のクリスチャン生活は、超自然的な注入によって存在し、存続している。
まさにキリストのいのちとご性質そのものが聖霊によって、キリストを信じる者のもっとも内部に注入されているのだ。

こうして私たちの救い主のことばが成就する。
「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」。

パウロは「もはや私が生きているのではなく」と言っているだけではない。
続けてこう言っている。
「キリストが私のうちに生きておられるのです」。

そこには変化だけではない。
注入がある。

これはクリスチャン人生のもっとも尊い神聖な奥義である。
・・・この世の人間は、このことを理解することも、気づくことすらもできない。
しかし、私たちの主に属する者たちにとっては、この注入はなんと現実的なことか。

この超自然的な注入があるおかげで、私たちのクリスチャン生活に対する新約聖書の理想は、私たちの内部において古い自己のいのちが継続して取り除かれ、新しいキリストのいのちがますます明確に王座につくことになっている。

私たちは誰もが生まれながらに利己的で自己中心的であるが、キリスト中心主義になるように定められている。
キリストは、私たちのクリスチャン生活の中で新たないのちとなり、私たちの心の中で新たな心となり、私たちの意思の中で新たな意思となられる。
私たちの愛の中で新たな愛に、私たちの人格の中で新しい人となられるのである。

私たちは必ずしも常に変容の山の頂に立って、神々しい光景を目にし、天来の声を耳にできるわけではない。
常に霊的な歓喜や恍惚感を経験できるわけではない。

これらのことが高い頻度で起こることは、私たちの現在の状態においては必要なことでも望ましいことでもない。
また、それがあまりにも多すぎると、私たちの神経系統が耐えられないだろう。

しばしば私たちは、毎日の変わりばえのしない現実が延々とつづく平原に降りていかなければならない。
時には「底知れぬ」谷に降り立って剣を抜き、「アポリュオン」(ヨハネの黙示録9章1節)自身とともに激しく戦わなければならないのだ。

それでも、山の頂にいようが、単調な平原に降りようが、試練の谷の底にいようが、私はこのことを確信している。
すなわち、私たちキリストを信じる者は、内におられる救い主をずっと意識することを決してやめてはならない、ということだ。

このことは次のみことばがしっかりと教えている。
「キリストが私のうちに生きておられるのです」。

キリストを中心にするということは終始、キリストを意識しているということである。
私たちの意識のすべては、内におられるキリストのいのちと心と意思と愛への意識が浸透するように定められている。

夏の大気がまばゆい陽光に満ちているように。

J・シドロー・バクスター


イエス・キリストはすべての中心であり、すべての向かう目標である。

ブレーズ・パスカル


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