2020年2月22日(土)
『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。』ガラテヤ人への手紙6章14節
十字架は力の奥義であり、私たちが「誇りとするもの」である。
それは私たちを聖別して粉々に砕き、死刑の宜告を書き記す。
キリストの力が聖霊を通して私たちの上に留まるためだ。
死を知り自ら死刑の宣告を受けた者こそが、力を得る。
あなたは自分の意思と力、時間と才能を完全に明け渡さなければならない。
あなたにあるものすべてを、祭壇に置かなければならないのだ。
しかし誰が、この明け渡しを行うのか。
その祭壇は何なのか。
もしもあなたが明け渡しを行うなら、それはおのれがおのれを明け渡すことになり、巧妙な独善の最たるものである。だが、その明け渡しとは、私たちの主の十字架がその死において行うもの、つまり私が釘づけにされた十字架が行うものだ。
「私はキリストとともに十字架につけられ」たと知ったとき、それはもはや自分にとって明け渡しの問題ではなく、私を聖別した十字架の問題であり、キリストがすべてであることを見出す。
十字架から離れたものはすべて、驕り高ぶりを、それも最悪の形の驕りを助長するのである。
サミュエル・リダウト
十字架はクルミの実のようなものだ。
外皮は苦いが、中の実は心身をさわやかにし、力を与えてくれる。
外から見た十字架には、何の美しさも良さもない。
その真髄は十字架を負う者にしか明かされない。
彼らは甘美なる霊性と内なる平安という実を見出すのだ
サドゥー・スンダル・シン
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