2020年2月18日(火)の手紙

2020年2月18日(火)


『そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。』コリント人への手紙第二5章11節


栄光に包まれ、神の右に座しておられる主キリストに対する畏れ。
このことが、私たちの良心をしかるべく支配しているだろうか。

私が言っているのは律法的な恐れや苦役への恐れではない。
神を恐れあがめる心のことである。
それは権威を認識し、感じ、進んで頭を垂れるときに、その権威によって生まれるものだ。

兵士は、自分よりも権威のある上官たちの前に出ると、同僚の中にいるときとはずいぶん違う感じ方をするものだ。
そしてその上官の地位や法的な権威が高くなればなるほど、その面前に出ることは、部下にとって敬虔な畏怖心を強めることになるだろう。

たとえ一等級か二等級しか上でない上官の前でも従順な態度を取るであろうよき兵士も、総司令官の前に立てば、感じることも行動もずいぶん違うものとなるはずだ。
さらには偉大な王や皇帝といった最高の権威者の前では、そうした場で生じる敬虔な畏怖の感情は、総司令官や総理大臣から最下級の召使いに至るまで、その面前に出たすべての者に広がるのではないか。

「神の聖霊を悲しませ」ずに聖霊の力と信仰の力とによって真にキリストの御前に出ることの意味を、私たちはほとんど理解してこなかった。
そこで私たちは自分がいかにつまらぬもの… そう、何の価値もない者であるかを見出すのである。

私たちはほかのクリスチャンの存在やこの世の日常的な状況にどっぷりと浸りすぎて、キリストと自分のたましいとの間に、教会や奉仕といったあらゆる種類のことが割りこんでくるのを許している。
自分たちと日々の状況との間に、常にキリストがおられるようにしなければならないのに、だ。

かくして、主の御前に出ることによって生じるキリストを恐れることは、私たちの間や心においてはほとんど知られていない。
キリストへの愛を促すことについて話すのはいいことだが、主の偉大な弟子であるパウロがキリストを恐れることについても知っていることを忘れないようにしよう。

繰り返すが、その恐れはパウロを、奴隷か何かのように震わせたのではなく、他者への厳粛な畏敬の念によって彼の良心に印象を与えたのであり、そのおかげで彼は人々を説得することができた。

まず自分自身の心が主を恐れることで厳粛な思いに満たされた説教者の力によって、人々の良心に訴えることができたのである。
そして次には、自分の心にキリストの愛が強く迫ってくる力を感じることで、貧しい罪人と敵たちが「神と和解させていただ」くように求めることができたのだ。

パウロ自身の良心は晴れやかだった。
彼は神の御前で完全に満ち足りて安らかだったが、主を拒む人々にとって「キリストの恐怖」が何を意味するかについては、厳粛な思いを抱いていた。

だからその厳粛な思いに打たれて、パウロは可能なかぎりすべての未信者に手をさしのべ、その良心に訴えた。
その間ずっと、神と人との和解の働きにおいて神の恵みの「かすかな細い声」を思い起こし、苦悩に打ち砕かれた人々の心に福音という香油を塗りつづけたのである。

J・A・フォン・ポーゼック


神を恐れることは、ほかのすべての恐れを消滅させる。

ヒュー・ブラック


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