2020年12月8日(火)の手紙

2020年12月8日(火)


『罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。』ローマ人への手紙6章14節


私たちはキリストによっていのちを得ているので、今は罪を、罪深い古い自分自身を、敵ではあっても支配力をもたない敵として見ることができる。

なんという救いであろうか!

古い性質がどれほど堕落したものであるかを知る者にとって、罪の支配からの救いの偉大さは、いかなる言葉をもっても十分に言い表すことはできない。

突然の誘惑はあるかもしれない。
失敗すらあるだろう。
しかし、罪が……支配することはない。

だがなぜ、罪が支配することはないのか。
「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にある」からだ。

キリスト教の全歴史が、すべての信徒のそれぞれの歴史が、この記述が真実であることを証明している。
また、その逆も証明している。

キリスト・イエスを通して神の惜しみない恩寵が知られ享受されているのと同じくらい、罪の奴隷状態からの解放も知られ享受されており、私たちは聖い生活を送ることができるのだ。

律法は、「律法の下に」ある者に何の力も与えることができず、呪いを与えることしかできない。

あなたが、神の恵みを受けるためには条件があるとみなした瞬間、それがモーセの律法であれ、福音の教えであれ、あなたは第一歩を誤り、すぐに不幸と疑いしか見出せなくなって、こう言うだろう。

「私は神の命令を守るべきなのに、そうしてこなかった」。
あるいは「キリストを愛すべきなのに愛していない」。
「私はいったいクリスチャンなのだろうか」。

さて、これはすべて律法なのか、それとも恵みなのか。
明らかに律法である。

そしてみことばは「罪があなたがたを支配することはないからです。
あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」と言っているのだ。

心が、神の限りない自由な無条件の恵みによって完全に自由にならないかぎり、聖い生活はありえないのは確かである。

神は私を、神を恐れぬ罪人の、地獄に値した私を引き上げてはくださらなかったか。
純粋な不相応な愛によって、私たちの罪のために死ぬように御子を与えてはくださらなかったか。

私たちが義と認められるために、御子を死者の中からよみがえらせてはくださらなかったか。
御子の血によって、私たちに永遠の贖いを与えてはくださらなかったか。

こうして私たちは、神のあらゆる属性に基づいて「神との平和を持って」いるのではないか。
キリストが死んでくださったというすべての功績のおかげで、私たちはキリストと同じものとなり、さらにキリストにあって神に対して活き活きと生きているのではないか。

そしてこのことはすべて、何の束縛もない完全な恵み、変わることのないお方の恵みではないか。

今や私は神に対して生きているので、私自身、古い私は死んだ、と判断することができる。
だから私は自分自身から解放されて、神に対して生きているのだ。

そして私への変わることのないすべての恵みのおかげで、いのちや救いや贖いに対する条件や「律法の下に」はいない。
自由に永遠に、完全に「恵みの下にある」。

今や私は自由になって主に仕え、真に悪から離れ、悪を憎悪している。
ああ、栄光に満ちた真理よ!
罪が……支配することはない!

C・スタンリー


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