2020年11月8日(日)の手紙

2020年11月8日(日)


『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。』ローマ人への手紙2章28節~29節


十字架は、キリストを救い主として回心するすべての人々にとって、新たな創造の誕生の地ですが、もっと広い意味では、キリストとその仲間から成る新しい人の生まれる場所でもあります。

自分自身の人生において新たな被造物となった構成員のそれぞれが、一緒に鍛えられて「キリストをかしらとする一つのからだ」を形成する多くの部分の一つなのです。

一つのいのちにあずかり、一つの御霊を飲んだすべての人は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

十字架によって、罪に堕ちた被造物のすべての分割は無効となりました。
国籍や宗派による区別で分割されることは、もうなくなったのです。
それらは地上の物事の外面的な秩序の一部であり、表面的で一時的なものにすぎません。

なぜなら、神に創造された「新しい人」は、キリストの領域にいるクリスチャンの内でますます新しくされ、「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」。
そしてまた、そこには「男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」。

それはつまり……ああ、神よ、感謝します……「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」、キリストにあるその領域には、どんな外面的で一時的な区別もまったく入り込む余地がないからです。

ですからカルバリは、キリストによる新たな被造物であるすべての者たちの一致の中心なのです。

私たちが、同じ主に従うと告白する人同士の区別や不一致は古い被造物に属するものであることを完全に理解し、古い人をその行いとともに脱ぎ捨てれば脱ぎ捨てるほど、キリストのために彼らが完全に一つになるように、という主の祈りがもっと早くかなえられるようになるのです。

カルバリもまた、人間の罪深い本性によって、偏見や育ち、宗教的理念によって相容れない可能性のある者同士の和解の場所です。

カルバリにおいて、ユダヤ人も異邦人も一人ひとりが、新しい人、つまりキリストの仲間となることによってユダヤ人や異邦人であることをやめました。
そして彼らは十字架によって和解させられ、キリストは敵意を滅ぼされました。

クリスチャンがキリストの死における自分の死を実際に経験的に理解し、キリストのからだにおける自分の場所……つまり、私たちがキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのですということを学ぶところに、キリストにあるいのちの内なる霊的な一致が損なわれることなく保たれるのです。

一致の中心であり、基であるカルバリによって、私たちが証している真理をまだ理解できていない仲間がいたとしても、キリストの構成員であるその仲間は誰も「敵」とみなされることはありません。

キリストのすべての構成員があの十字架上の死によって、罪に対してだけでなく、「古い人」の宗教に属するすべてのものに対して自分が死んだことを悟ることができたとき、彼らはよみがえって天に昇られた頭と一つであるすべての人々との実際的な真の一致を見出すことでしょう。

ジェシー・ペン=ルイス


心を一つにしてともに働き、ともに労苦し、ともに走って、ともに苦しみ、ともに休んで、ともに起き上がれ。
神の執事として、神の助言者として、神の僕として!

神に喜ばれるように努めよ。
あなた方は神の兵士であり、そのお方から支えを得ているのだ。

あなた方の誰ひとりとして逃亡兵となるな。
あなたのバプテスマをあなたの武器とし、あなたの信仰をかぶととし、あなたの愛を槍に、あなたの忍耐をあなたの胸当てとせよ。

あなたのよき働きをあなたの預金とせよ。
当然の報酬としての貯金を引き出すことができるように。

それだからお互いに忍耐をもって、優しくあれ。
神があなた方とともにいてくださるからだ。

願わくは、あなた方のことを永遠に喜べるように!

アンティオキアの殉教者イグナティオス[116年没]がスミルナのポリュカルポス[156年没]に宛てた手紙の中で


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