2020年11月7日(土)の手紙

2020年11月7日(土)


『これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。』コリント人への手紙第一15章28節


「私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて」行えることが、私たちには保証されている。

私たちの内にはその力があるのだから、それを得ようとする必要はない。

だが忘れてならないのは、この力は私たち自身から来るのではない、ということだ。
はっきり言うと、決して大量に与えられるのではないのである。
私たちには膨大な力が与えられているわけではない。

わかりやすい例を引くと、力の蓄電池など持ち合わせていないし、自分の内に一瞬たりとも力はない。
それ以上に、力があると意識することすら期待してはいけないことは明らかだ。

私たちは弱さを意識するし、聖霊の力はその弱さを通して発揮される。
自分のことを、すばらしい偉業をいつでも成し遂げられる霊的な巨人のように感じることはありえない。

とんでもないことだ!

パウロは違った。
彼は、人間の知恵に基づいた魅惑的な金言によって語ることはしなかった。

パウロは「実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」が、彼の話を聞いた人々は、神の御力によって信仰を堅くしたのである。

神の「高官たち」はしもべであり、神の「力ある者たち」は弱い。
神の高貴な者たちは卑しく、蔑まれている。
「肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです」。

愛する兄弟たちよ、私はこのことを、このきわめて重要なテーマについての神のことばの教えだと信じている。

短く不十分にしか語れなかったが、あなたが、力の道は一般に考えられているものとは反対の方向にあるものだ、という確信を得てくれるなら、その奥義、「もはや私……ではなくキリストが私のうちに生きておられる」をあなたが学びつづけてくれるだろうと、私は期待することができる。

サミュエル・リダウト


聖い真の生活(聖徒たちの生活はキリストにあって聖められている)の根源と力とは、自分はまったく無力であると常に意識することにある。

つまり、主の御力といのちの働きにゆだねることで深い安らぎを得、愛に満ちた救い主に自分自身を完全に明け渡して、自分は無であり「神が、すべてにおいてすべて」であることに同意する信仰を持つことである。

自分自身による働きと、信仰を通してキリストによって働くこととの違いを見分け、説明することは不可能に見えるかもしれない。

だが私たちがそうした違いのあることを知って、自分を信用せずにキリストの働きに頼ることを学ぶなら、聖霊は私たちをこの主の奥義に対しても導いてくださるだろう。

信仰の働きとは、キリストの働きなのである。

アンドリュー・マーレー


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