2020年11月4日(水)の手紙

2020年11月4日(水)


『あなたの目が健やかなら全身が明るくなります。』マタイの福音書6章22節


かつては地にある人にすぎず、罪によって神から切り離されていた者たち、互いの心も人間的な意志や栄光の対象のために結束するとき以外は一つとなることのなかった者たちが、今や「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」という一つの心の目的をもった主の子どもたちとなっていることは、実に驚くべきことだ。

しかし、実際にクリスチャンの生き方はそのように見なされており、実際そうでなければ価値はないのである。

聖霊によってキリストが明らかにした真理と光の内に、新たにされた心と想いにとって最も豊かな原料と広範囲に及ぶ視野があることは真実だ。

しかしキリストの教えにおいては、広さも、長さも、高さも、深さも、我々の愛情の状態や我々の歩みと働きとの性質に影響を与えないことはない。
また理論が実践からかけ離れることほど、神を冒潰し、人に害を与える誤りはない。

聖書は理論と実践とを分かちがたく結びつけており、この二つを引き離そうとする者たちを、神と人との明らかな敵である悪として厳重に警告している。

真理はすべて知識を与えるだけでなく、聖化するものであり、真理を伝えるために神から賜物を与えられた人々から我々が学んだことは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかということである。

その道を、「ギリシア人も……スキタイ人も、奴隷も自由人も」学問のある人もそうでない人も、信仰を持ったばかりの者は信仰に入って最初に歩みはじめる。
その道をはずれたら、誰もが罪と恥辱に落ちるだけだ。

だがそれは、律法やしきたりの内に見出せるような明確に定められた方向ではない。
生き方について、すなわちキリストの生き方について間題になっているのだから、そこには神を理解したうえでの実践と成長とがあるのだ。

神のみこころと神のみことばとを識別できるかどうかは、我々のたましいの状態にかかっている。
しかし内面的な状態が軽薄であったり、人の意思が活発でも吟味されることがない場合には、神のみこころとみことばとが見過ごされてしまう。

そして霊的な足元がしっかりしていて、知性においてみことばの深い理解力がある場合にのみ、より完全な従順が生まれるのである。

神のみこころをより知るようになるにつれて、その人の心は、主に喜ばれることを熱望するようになる。
我々はもっともっと豊かになるのだ。

ウィリアム・ケリー


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