2020年11月3日(火)の手紙

2020年11月3日(火)


『私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。』コリント人への手紙第二4章7節


神に深く感謝することは、人間の弱さは何一つとして神の力を制限するものではない、ということだ。

私たちは、悲しみのあるところに喜びは存在し得ない、涙のあるところに賛美はあり得ず、弱さの存在するところに力のあるはずがない、疑いのあるところに信仰はあり得ない、と思いがちだ。

しかし、私が断言したいのは、神が求めておられるのは、人間に属するものはすべて神の宝を入れる「土の器」になるように意図されたものだ、と私たちが理解することなのだ。

これからは気持ちが落ちこむのを感じたら、鬱の気分にではなく、主に心をゆだねよう。
そうすれば神の宝は、土の器であるがゆえにいっそう燦然と輝くだろう。

私は理屈を語っているのではない、自分が何について話しているかよく承知している。
ここにはキリスト教の栄光がある。
神の宝は、すべての土の器の中で明らかにされ得るのだ。

クリスチャンの生き方は逆説であり、私たちクリスチャンはこの逆説的な人生を生きるにつれて、神を知っていくのである。

クリスチャン人生を続けていけばいくほど、それは逆説的なものとなる。
宝はますます明白なものとなっていくが、土の器はずっと土の器のままだ。

これはなんとすばらしいことだろう。
生まれつき忍耐力のない人間の内に、神から与えられた忍耐を見出そう。
そしてその状態と、何によっても変えられない人間のありさまとを比較してみるのだ。

生まれつき高慢な人間の内に、神の謙虚さを見出し、それを常に遠慮がちな性格の人間と比べてみよう。
神の力を、弱い気性の人の内に見出し、生まれつき強気な性分の人間と比べてみよう。
その差はとてつもなく大きい。

生まれつき弱い人々は、器の土の質のせいで、自分は何の役にもたたないと常に思いがちだ。
しかし、落胆する必要はまったくない。
土の器の中の宝は、そうした器の内から加わる光によってさらに輝く質のものだからだ。

兄弟姉妹たちよ、もう一度言わせてほしい。
すべての間題は、宝の質によるものであり、宝を入れる器の質によるものではない、ということだ。

ネガティブな面を強調するのは愚かなことだ。
私たちの関心はポジティブな面にある。

主は、私たちすべての者の人生にご自身を現すことができる。
そうなるとき、多くの人がその宝を目にするのである。

ウォッチマン・ニー


あなた自身は満ち潮になったり引き潮になったり、昇ったり落ちたり、満ちたり欠けたりするだろう。
だがあなたの主イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

そして、救いは自分自身が作り出すものではないこと、自分自身でキリストの偶像を作り出す必要のないことは、なんと大きな慰めであろうか。

サミュエル・ラザフォード


a:67 t:1 y:0