2020年11月27日(金)の手紙

2020年11月27日(金)


『私は主を愛している。主は私の声 私の願いを聞いてくださる。』詩篇116篇1節


人は時おり、神が祈りに答えてくださったと言うことがありますが、それはつまり、自分たちの願いどおりに神が答えてくださり、自分たちが喜ぶようなことを何かしてくださったということなのです。

もしも神が違うことをなさったら、その人たちは悲しげに「神は答えてくださらなかった」と言うでしょう。
でもそれはすべて間違いなのです。

祈る人が、私たちの主イエスの御名によって父なる神のもとに来るなら、祈りは常に聞かれます。
「私は主を愛します。主は私の願いを聞いてくださるから」という言葉を、いつも私たちは言うことができるのです。

そしてこの言葉もそうです。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」。

私たちが神を愛しているなら、私たちの真実の祈りはどんな言葉であれ、神の完全なみこころがなされますように、というものになるでしょう。

ですから、私たちの願いがかなえられたことを知る前に、もうすでにその願いがかなえられていることは間違いないのです。

祈りの答えがどんな形をとろうと、その事実は変わりません。
聞きとげられたことが望んだものばかりではないように見える時があるのは、私も知っています。
それでも、それは私たちが望んでいることのすべてなのです。
私はこれを、キリストを愛する人たちだけに向けて書いています。

なぜなら結局のところ、私たちがいちばん深いところで望んでいたことは、自分自身の生まれながらの意志が願うものではなく、私たちの父なる神のみこころが願うものだからです。

与えられるものは私たちの心が願っているものであり、神は私たちの「声」「願い」を聞きとげなかったわけではありません。
神が私たちに答えてくださるのは、私たちの深いところの願いであり、決して私たちのたましいの上っ面で願うことではないのです。

心が混乱したときには、このことを思い起こすと役に立ちますよ。

エミー・カーマイケル


自分の意思を手放さないかぎり、神からの答えを期待することはできない。

あなたが自分の祈りに対する答えを閉め出しているのは、今祈っている事柄について自分の意のままにしたいと思っているからだ。

エドワード・デネット


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