2020年11月19日(木)の手紙

2020年11月19日(木)


『どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。』エペソ人への手紙3章16節


私たちは神の恵みを経験することに対して、もっと自分を開いていかなければならない。

神の豊かな恵みのどれほど多くを、ほとんど知らずにいることか!
キリストによって与えられている恵みのどれほど多くを、自分のものとして求めずにいることか!

キリストと一つになることで注がれる恵みを極限まで楽しむことは、すべてのクリスチャンにとっての特権だが、そう言うだけでは十分ではない。
それは特権以上のものであり、クリスチャンの責務でもある。

私たちはただ単に、「内なる人に働く御霊により、力をもって……強め」られ、「希望にあふれ」、「全き平安のうちに守られる」だけではなく、そうあらねばならないのだ。

だが実際に私たちはそれを求めているだろうか。
私たちは現実にそれを得ているだろうか。
大部分のクリスチャンはただ単に生きているだけだ、と言ってしまったら厳しすぎるだろうか。

彼らの霊的な脈拍は弱々しく、霊的な進歩は遅く、霊的な勝利はほとんどない。
霊的な喜びも乏しく、その信仰にはまるで活気がない。

もしも彼らが真理を見ているとしても、ぼんやりとしか見ていない。
燦々と降り注ぐまばゆい陽光などは見たこともない。
彼らの空には常に雲が低くたれこめている。

こうした貧弱な体験でも、恵みをまったく経験していないよりはましかもしれない。
死者よりは病人のほうがましだ、というようなものだ。

けれどもキリストが来られて私たちに救いのみわざを行ってくださるとき、私たちを死から病いへと戻してくださるのではない。
主は私たちを死から、幸いに満ちた人生へと回復させてくださるのである。

どうして私たちは、主が与えてくださる保証された立場を享受しないのだろうか。
キリストが「勝利者」としてよみがえり、「罪」と「死」と地獄に対する「勝利を私たちに与えてくださる」ときに、なぜそんなにもしばしば目をふせ、うなだれて歩くのだろうか。

私たちの憂いに満ちた顔を見、信仰の乏しい元気のない声を耳にした人は誰ひとり、夢にも思わないだろう。
私たちは、キリストが死んでよみがえり、永遠に生きることで私たちのために獲得してくださった栄光の自由の相続者であるということを。

G・H・ナイト


ありきたりのクリスチャン生活に満足することなく、こう言おうではないか。

「もしもほかの誰も心を天に向けていなくても、私は天に向けていよう。
もしもほかの人々が聖霊に満たされていなくても、私は満たされていよう」

ジョージ・V・ウィグラム


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