2020年11月16日(月)の手紙

2020年11月16日(月)


『神にはどんなことでもできます。』マタイの福音書19章26節


狭い道を歩んでクリスチャン生活の日々の困難を実感するとき、神は不可能を可能にする神であるという偉大な真実は、試みにあって苦悩するたましいに深い慰めをもたらしてくれるだろう。

神のこのすばらしいご性格に想いを馳せると、静けさと穏やかさの中ですべての困難を神の恵みの足台に置くように導かれて、困難なことにあまり目を向けなくなり、もっと神に目を向けるようになる。

失望することがあまりなくなって、喜ぶ機会が多くなる。
何であれ神の栄光を現すように、物事を考えるようになる。

容易であろうと困難であろうと、ご自身の栄光と名誉を完全に保つことができるお方に請い願うようになる。
たとえ、見た目や理屈では多くの障害があるように思えてもイスラエルの民の歴史は、神のこのご性格を十分に立証するものである。

私たちは自分のことや家族のこと、あるいはそれ以外のことで大変な困難を、しかも数多く抱えてはいないだろうか。

では、私たちのなすべきことは何だろう。
それは私たちの神を経験すること、「奇しいみわざを行われる神」としての神を知ることである。

エレミヤは次のように嘆願している。
「ああ、神、主よ。
まことに、あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。
あなたにとって不可能なことは一つもありません」。

私たちの聖なる主は言われた。
「神にはどんなことでもできます」。

そして主ご自身も、悲しみの時にこう訴えられた。
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります」。
このことに関する私たちの信仰がどれほどのものであるかは、きわめて重要だ。

しかし、これらの発言はどちらかというと信仰の弱い人に向けてのもので、そうした人々に対して、私たちが関係をもっている神がいかにすばらしいかを示すものだ。

あれやこれやの試練のときによく口にするのは、「ああ!もう希望なんてなくなった!」という言葉である。
唇に浮かぶ笑みが心の不信を露呈している。
試みにあっているクリスチャンの多くは、救いなどないのだという思いを抱いて、試練に屈してしまっているのだ。

モーセは言った。
「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか」。

イザヤは「その名は『不思議な助言者……』と呼ばれる」と証しして、こう言っている。
「万軍の主の……摂理は奇しく、その英知は偉大である」。

ヨブですら、こう言っている。
神は「大いなることをなさって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない」。

そしてダニエルも神のことをこう断言している。
「この方は人を救い助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる」。

聖書には同じような証しがたくさんあり、私たちはそれらを読めば読むほど、いろいろある中でとりわけ、神のご性格を知ることができるのだ。

この憂鬱な暗い時代に、試みにあって意気消沈している気弱な人には、神に信頼して次の聖句を心に刻みつけるように勧めようではないか。
「人にはできないことが、神にはできるのです」。

信仰は強力な生き方であり、すばらしいことをしっかりとらえている。
それは神とつながっているからだ。

私たちがこのようにして神とつながっていれば、たとえどれほど困難が大きかろうと、私たちのたましいは神のすぐ間近に導かれる!

それはまるで高い山に登ったようなものだ。
そこから見下ろす人や物のなんと小さく、取るに足らないものに見えることか。

「主の主であられる方に感謝せよ。
その恵みはとこしえまで。
ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。
主の恵みはとこしえまで」

主の小さき者たちのためのパン屑


船の力は、大暴風雨に襲われたときに初めて発揮される。
福音の力は、クリスチャンが激しい試練に襲われたときに初めて完全に現される。

「夜には 主の歌が私とともにあります」という事実を父なる神が明らかにされるなら、まず夜をもたらさなければならないのである。

W・トロッター


希望をもてるような状況がまったくないとき、あなたは主に望みをおいているだろうか。

ジョン・ダービー


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