2020年11月12日(木)
『神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。』ローマ人への手紙3章24節
働き手はどんなよい働きをするにしても、その前に神の御前で「義と認められ」なければならない。
人は、その働きによって働き手を評価する。
神は、働き手によってその働きを評価される。
十戒の最初の戒めが私たちに求めているのは、唯一の神を「知って……仕える」こと、つまり、神ただおひとりを信じてゆだねることだ。
それこそが真の信仰であり、それによって私たちは「神の子ども」となるのである。
あなたを不信仰の悪から救い出せるのは、あなた自身の力でも律法の力でもない。
だから、あなたが律法にかなうように行う働きはすべて、 律法の働きによって無となり、まったく重要ではないので、神の御前にあなたを義とすることはできない。
神はご自分を真に信ずる者だけを義とみなされる。
主を真の神と認める者は神の子どもであり、律法を真に果たす者だからである。
たとえあなたが死にそうになるほど働いたとしても、それによってあなたの心がこの信仰を獲得することはできない。
なぜなら、あなたの働きはその信仰にとっての妨げにすらなり、邪魔する結果になってしまうからだ。
私たちが自分自身の力で行うこと、神の恵みによって私たちの内で働いているのではないことはすべて、疑いもなく律法的な働きであり、義と認められるためには何の役にも立たない。
しかし、不信仰によってそうしたことが行われるために、神は不快になられる。
働きをよりどころとする者は何一つ、自由に自発的に行うことはできない。
地獄の恐怖に煽られたり、今をよくしたいという誘惑につられたりしないかぎり、よき働きはまったく行おうとしないだろう。
それによって明らかになるのは、彼らは利益を得るためにだけ頑張る、あるいは恐れに突き動かされているだけだということであって、彼らはむしろ律法を心から憎み、いっそ律法などまったくなければいいと望んでいるのである。
悪しき心は良きことを何一つ行うことはできない。
律法は、この心の悪しき性癖と善を行いたくはないという思いを露わにするものである。
そのとき、律法が示すのは、神が評価されるのは『手』の働きではなく、『心』の働きだということなのだ。
マルティン・ルター
律法の木から、生ける果実はただの一房も摘み取られたことはないし、これからも摘み取られることはない。
律法は『命のない行い』しか生み出せない。
私たちはそれを取り去って、良心を清める必要がある。
良心から『悪い行い』を取り去るように。
C・H・マッキントッシュ
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