2020年10月6日(火)の手紙

2020年10月6日(火)


『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。』ヘブル人への手紙12章1節


あなたはクリスチャンとして、本当にキリストを信じているだろうか。
あなた自身を100パーセント完全に、主の手にゆだねているだろうか。

あなたには主にゆだねる勇気があるだろうか。
主の約束を信じられるだろうか。

それとも、あなたの内には一筋の疑いと不信仰があって、こう言い張ってきかないのではないか。
「もしも私が世を棄てたら、いったい何が私に残るんだ。
もしもこの世と断絶なんかしたら、いったいどうやって生きていったらいいんだ」

あなたは、主が自分にとってこの世よりもはるかによいものをもっておられることを信じられないのだろうか。
主はあなたを、あなたのすべての罪から救いだすことができるのだと信じられないのだろうか。
主を信頼することができないのか。

もしも私たちが「競走を…走り続ける」ことを本当に願っているなら、不信仰の罪を退け、主に自分自身をゆだねて信頼しなければならないのだ。

私たちが神の愛に応えて神を追って走ろうとするなら、満たされなければならない第一の要件は、罪を、とりわけ不信仰の罪を退けることである。

だが二番目は、私たちに重くのしかかる可能性のある重荷をすべて退けることだ。
重荷は必ずしも罪となるわけではない。
重荷は妥当で律法にかない、尊重されるべきものであることさえある。

たとえば私が、数ある衣類の中で、シャツとネクタイ、コート、礼装用の靴を身につけたとしよう。
これは尊重されるべきものであり、きわめて妥当であり、適切きわまりないものだ。

もしも私がレースで走っているのでなければ。

しかし、もしレースに出ているのであれば、そうしたものはいっさい必要がなくなる。
必要がないばかりか、すべてが私にとっての負荷になってしまう!
私にのしかかり、邪魔をしてうまく走れなくさせる。

私はぎりぎりまで脱ぎ捨てて、必要最小限の服装にならなければならない。
そうやって初めて、自由に走れるようになるのだ。

ある人にとってそれは罪であるかもしれないが、ほかの多くの人々にとっては重い負荷である。

この人生の関心ごと、つまりこの人生の気楽さや快適さや贅沢のすべて、この人生におけるたくさんのよいもの、いわゆる豊かなライフスタイルを作り上げるすべてのもの、というこれらの要素は、悪いものではないかもしれない。

実のところ、すごくよくて、すごく尊重すべきものであるかもしれない。

だが親愛なる兄弟姉妹よ、もし私たちがそれを持たねばならぬ、というほどまで欲するなら、それなしには生きていけない、というほどまで求めるなら、それは私たちにとって重荷となり、速く走ることの妨げになる。

いや、まったく走れなくさせるかもしれない!
私たちのたましいは高く上ることができなくなってしまうだろう。

スティーブン・カウン


もしもあることが自分にとってつまずきのもとになるなら、それを完全に断たなければならない。

人が異なれば、つまずきとなるものも異なる……。
それはひとりずつ違う、神との個人的な事柄なのだ。

あなたにとって何がつまずきのもとになるか、私には判断できない。
もしつまずきのもとになるものがあるなら、それを手放すべきである。

ジョン・ダービー


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