2020年10月4日(日)の手紙

2020年10月4日(日)


『しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」』ルカの福音書19章8節~9節


「脅し取った物」の返済は、明らかにされた神のみこころである。

返済できるだけの力があるのにその返済を怠るなら、ずっと罪の意識をひきずり、霊的な成長は阻まれる。
返済には困難や自己否定や大きな損失が伴うとしても、真摯に果たさなければならないのだ。

もしだまし取られていた人々が亡くなっていたら、その相続人を探し出さなければならない。
このことが可能であれば、返済は彼らに対して行われる。

しかし、これが不可能な場合もあるかもしれない。
そのときに限って返済金は、主のみわざや貧しい信徒のために、主にささげるべきだ。

あと一言だけ付け加えよう。

正当な所有者が生存している場合、時には罪責感を抱いた者が、彼らに対して自らの罪を知らせる勇気を持ち合わせていないことがある。
そうした状況では、もっとも聖書的で最善の方法ではないとしても、いつまでも罪の意識をひきずっているよりは、いっそのこと匿名で返済したほうがいい。

何もしないよりはましである。

五十年近く前になるが、心に思いわずらいのある男がいた。
彼は雇い主から小麦粉を二袋だまし取っていた。
私は、雇い主に罪を告白して返還するように促した。

だが彼はそうしなかった。
その結果、それから二十年ものあいだ、罪を告白して返済するまで、真の心の平安を得ることができなかったのである。

ジョージ・ミュラー


たましいが平安と自由を得るまでは、神から何も受けることはできない。

エドワード・デネット


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