2020年10月3日(土)の手紙

2020年10月3日(土)


『幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。』詩篇32篇1節~2節


他の人々が主を求めるように引き寄せる力は、もっぱら私たち自身の、主との親交と喜びにかかっている。

J・G・ベレット


私たちは、一度に二つのことを考えられるようにはできていない。
何かをするときは、自分のもっているすべてをそのことに投じる。
だから何かをしながら、キリストのことを直接的に考えたり、主と意識的に交流をはかることはできないのだ。

私たちは、地下水の流れのように潜在意識においては主の臨在を理解しているし、わずかな時間であれば、いつでも主について語ることができる。
だが日常生活の大部分は、主と直接的にふれあうのではなく、自分の用事に埋もれてしまっているのである。

さて、もし(主との私たちの結びつきが)恵みによって、自動的になされる事実であるとするなら、主のことを一日中、直接的にはほとんど考えていなくても、すぐに非難されることはない。

しかし、私たちは「みな、キリスト・イエスにあって、一つだから」、主と私たちはひとりの人間であり、私たちが考え行っていることは、主が考え行っておられることなのだ。

私たちは一瞬たりとも離れることはない。
そんなふうに離れることは、とてつもなく不可能なことだ。

私たちがどこにいようとも、そこには主がおられる。
主は限りない恵みによって、ともにいてくださっている。
それで、すべてが決まる!

だから私たちは、神の規範に従う男女として行動し、神の規範に従う生活を送る自由を与えられている。
それでも実際には「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」のであり、そのことは、今語っていることを理解している人々と共有する私たちの特別な秘密なのだ。

私たちは祈り、みことばを読むが、束縛されているわけではない。
これらのことに依存してすらいない。
ずっと変わらず、主に結び付けられている。

そしてもし多忙のせいで主との時間を望んでも得られなかったとしても、やはり非難されることはない。
あるいは、そのために霊的に乾いたり、力を奪われたり、祈りやみことばですら自分の「生ける水」や「武具」にはならない、というような偽りの想像に陥ることもない。

私たちがいつも自分の内におられる主を認識することを学ぶにつれて、主との親交や絆はおのずと生活の根源となっていくのである。

ノーマン・グラッブ


多くの人が、神とふれあうことで幸せな気持ちになると思っている。
それは神のみこころの内にいることだ。

神との親交は、適切な方法で、適切なときに、適切なことを行うことである。

ひとたび、神とのつながりから離れてしまったら、私たちは何一つ適切なことを行うことはできない。

エドワード・デネット


a:90 t:1 y:0