2020年10月29日(木)の手紙

2020年10月29日(木)


『アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。』創世記22章14節


アブラハムが、逃れるすべがまったく見つからなくて、今にも息子を屠ろうとしたとき、主は全焼のささげ物にする雄羊を与えて、息子イサクを救ってくださいました。

アブラハムは、神の特性のひとつがご自分の民の必要を見て、満たしてくださることだという大きな発見をしたのです。

そこで「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ」。
これは、「主が見てくださる」、または「主が備えてくださる」という意味です。

今日、アブラハムの発見を一度も経験したことのないクリスチャンはおびただしい数に上ります。
彼らは主がアドナイ・イルエであることを知りません。

主が将来、自分たちのたましいを救ってくださることは信じています。
けれど今、主が彼らのことを気にかけ、守りたいと望んでおられるとは、夢にも思っていないのです。

それはまるで、重い荷物を背負っているときに、友人に車に乗るように勧められた人のようです。
彼はお礼を言って、友人の車に乗りこんだけれど、荷物を背負ったままなので、その重みで身体をエビのように丸めています。

「どうして、その重荷をおろして椅子に置かないんだい」と友人が訊きました。
「いやいや」彼は答えました。
「きみにぼくを運んでくれるように頼むだけでも大変なことだよ。
ましてや、ぼくの重荷まで運んでくれなんて、とても頼めやしない」。

あなたは、こんな愚かなまねをする人間がいるだろうか、と思うでしょう。
でも、あなたも同じことをしていませんか。

主があなたのことを気にかけていてくださることは信じているのに、自分の重荷は今でも自分で背負ったままなのではありませんか。

愚かなのはどちらでしょうか。
この人、それともあなた。

ハンナ・ホワイトール・スミス


あなたは与え手であり、癒やし主であるキリストの前に、自分の要求を何一つ並べなくてもいられるのだろうか。

クリスチャンは、キリストを用いないことで神の聖霊を悲しませている。
だから神は、彼らがキリストに頼らざるをえないようにする手段を見つけなければならないのである。

ジョージ・V・ウィグラム


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