2020年10月24日(土)
『わたしはいのちのパンです。……人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』ヨハネの福音書6章48節~53節
読者諸君、次のことを明確に心に留めよう。
すなわち、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはない」ということだ。
これが聖餐……「主の晩餐」を意味する、と思ってはならない。
いや、これが実質であり、主の晩餐は影である。
これは実体だが、聖餐は形にすぎない。
人は主の晩餐を千回食べても、地獄で永遠を過ごすかもしれない。
しかし、「人の子の肉を食べて」永遠のいのちをもつことのできない人間は、ひとりもいない。
主はこのことをお告げになったとき、ご自分が死んでよみがえり、人として「神の右の座につく」ことを知っておられた。
人を神のもとに導くみわざ、すなわち義なる主を信じる者が、主が今おられる場所に行けるようにするみわざをなすことを知っておられたのだ。
だから主はこのように、主を知り、主を食べることの必要性を強調しているのである。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしはその人を終わりの日によみがえらせます」。
そしてこう繰り返している。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」。
簡単にいえば、わたしたちは一つなのだ、とクリスチャンに言っておられるのだ。
読者諸君、私はこのことの重要性について訊ねたい。
あなたはもう「人の子の肉を食べ、その血を飲んだ」だろうか。
この問いは、あなたが神に、ただ神おひとりに対して答えなければならないものである。
神の信徒とともに主の晩餐にあずかるのは大いに幸いなことではあるが、これは象徴にすぎない。
主がここで意味しているのは、主の死によって主を受け入れ、その死によって主を食さなければならない、ということだ。
それによってのみ、私たちは自分のたましいに対していのちを得ることができるのだ。
主はこのように語られたあと、「弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた」。
「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか」。
主は天に上り、その結果として私たちは、主が地におられたと仮定した場合よりもはるかにすぐれた者となる。
仮に今、主が地上に、たとえばエルサレムにおられるとしよう。
そうなると主は、エジンバラにはおられなくなる。
だが聖霊は栄光のうちに天から下ってこられて、私たちの内に住み、クリスチャン一人ひとりに内在される。
そして私たちがどこにいようとも主がおられることを、私たちに実感させてくださるのである。
W・T・P・ウォルストン
私は、自分の恵みあふれた体験から次のように言うことができると思う。
すなわち、私にとって場所の問題とは、ただそこに神がおられるのかおられないのか、ということだけなのだ、と。
ウィリアム・バーンズ
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