2020年10月22日(木)の手紙

2020年10月22日(木)


『今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、…教会のために、…キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。』コロサイ人への手紙1章24セル


カルバリのキリストが来られて、私たちが生きるようにと望んでおられる人生をまずご自分が全うされたのは、なんとすばらしいことではありませんか。

主は来られて最初にその生涯を過ごし、それからご自身の死と、主に従った私たちの死を通して、再び私たちの内でそのような人生を送ることを望んでおられるのです。

主は人間たちの暗い不幸な世界について、こう言っておられます。
「わたしの子どもたちを通して、彼らはわたしのことを理解するだろう。
わたしの子どもたちの内には、わたしの内にあったのと同じし聖霊がおられるのだから」

パウロがなぜ次のように言うことができたのか、これでわかるでしょう。

「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです」。

そしてピリピ人への手紙2章17節~18節では、再びこのように言っています。

「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。
あなたがたすべてとともに喜びます。
あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください」。

あなたは、ほかの人々がキリストの栄光を現すために、あなたの代わりに「注ぎの供え物となっても」喜べるでしょうか。
いいえ、とんでもない。

あなたはこう言うでしょう。
私は進んで自分をささげたいと思っているけれど、誰も私の代わりにささげられてほしくはありません、と。

でも自立心の強い人が、自分のために誰かがすべてをささげることを許容するためには、もっと大きな恵みが必要なのです!

けれどもパウロは言いました。
「たとい私が……注ぎの供え物となっても、私は喜びます……あなたがたも同じように喜んでください」。

パウロにしてもほかの誰にしても、自分のいのちを他の人々のためになげうつことを望んでいるときには、その成果を奪われてはならないのです。

困窮している人々が自分たちのために何かをしてもらうことを全く望まないとしたら、それはとても痛ましいことです。

けれどそこに、自我が存在していないかどうか注意しなければなりません。
キリストはご自身の前に置かれた喜びのために、十字架を耐え忍ばれました。
他の人々のために犠牲を払うときには、神聖な喜びがあるのです。

「わたしは、あなたがたにわたしの喜びを与えます!」

カルバリの前夜の喜び!
これはイエスが経験された道です。

私たちもその道をたどりますか。
あなたは、「はい」と言いますか。

それでは、聖霊にあなたとあなたの置かれている状況を扱っていただき、御霊ご自身のやり方でそのことを成し遂げていただきましょう。

ジェシー・ペン=ルイス


奉仕の困難さを、自分がどういう人間であるかによって測ることほど致命的な誤りはない。
問題は、神がどういうお方であるか、ということだ。

我々の不信仰の霧の中に立ちはだかる山のように見える困難も、神にとっては取るに足らぬものであり、その全能の力を現す機会にすぎないのである。

エドワード・デネット


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