2020年10月21日(水)
『また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。』ローマ人への手紙6章13節
「神に献げる」というのはすばらしい言葉だが、あまりに乱用されすぎて、その深遠な意味をほとんど失ってしまっている。
明け渡すというのは一般的な神学用語ではないかもしれないが、力に満ちている。
私たちが自分の人生を心から積極的に何の疑問もなく無条件で、決定的に神に明け渡すなら、いつでも結果として聖霊に満たされる。
明け渡しには二つの面がある。
聖霊によって聖めていただくための明け渡しと、自分自身をイエス・キリストに明け渡し、主によって私たちを神にささげていただくようにすることだ。
明け渡しは、話題にするのはたやすいかもしれないが、いざ実行するとなると誰もが尻込みする。
それ以外のことなら何でもやるけれど、というのである。
だが明け渡しに代わるものなどありはしない。
中には、神が明け渡しに定めたことを祈りで代用しようとする者もいる。
また、自分たちが必要としているものを神が満たしてくださるまで待つ、と言う者もいる。
どちらも間違いだ!
彼らは、自分たちが神を待っていると思っているが、神が彼らを待っておられるのだ。
いかなるときも、彼らが聖霊に従いさえすれば、聖霊はすべての門と道を通り抜けて、人生のどんな片隅にも来てくださるのである。
G・キャンベル・モルガン
主に従い、主に信頼して歩むもっとも謙遜なクリスチャンは、もっともすばらしい霊的な力を発揮する。
力は、日々の生活において、キリストに似た者となることによって発揮されるのである。
エドワード・デネット
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