2020年10月18日(日)
『馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。同じょうに、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲへナの火によって焼かれます。』ヤコブの手紙3章3節~6節
黙想に適した時間を選んで、神の慈愛にしばしば想いを馳せよう。
好奇心を満足させたり、暇つぶしのためではなく、あなたの心をデボーションに向かわせることを学ぶために、聖書を読むことだ。
もしもあなたが必要もないおしゃべりやこれといった目的のない訪問を避け、噂話や世間話に耳を傾けることをやめれば、神に関することを黙想するのに適した時間をたっぷり見つけられるだろう。
偉大な聖徒たちは一人で神に仕えるほうがよかったので、できるだけいつも他人とつきあうことを避けるようにしていた。
ある賢者が、かつてこんなことを言った。
「しょっちゅう人に囲まれていると、家に戻ったときは、空っぽのつまらない人間になっている」。
私たちもおしゃべりに時間を費やしすぎたときなど、そんな経験をすることがしばしばある。
しゃべりすぎないようにしようと注意するよりは、最初から沈黙を保っているほうがたやすい。
人前で自分自身を注意深く見張っているよりも、家でじっと静かにしているほうがたやすいのである。
それだから、内面的で霊的な人生を送ろうと決意する者はすべて、イエスとともに群衆から退いているべきなのだ。
どんなクリスチャンも、人に知られずにいようとしないかぎりは、たましいに危険を及ぼすことなく人の目にさらされて生きていくことはできない。
喜んで沈黙を守ろうとしないかぎり、誰も安全に語ることはできない。
よく従うことを学んでいないかぎり、安全に指導することはできない。
神への崇敬の念を示さないかぎり、誰も安心して喜ぶことはできないのである。
トマス・ア・ケンピス
私たちは、この世から実質的に離れて神とともにいるための力をどこに見出したらいいのだろうか。
それは神ご自身の内よりほかにはない。
ジョン・ダービー
a:74 t:1 y:0