2020年10月10日(土)の手紙

2020年10月10日(土)


『安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。』出エジプト記20章8節


神は安息日を「聖なるものとされた。
その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである」。

この安息は実際的なものだった。
神は創造において、まるでご自分をなくされるかのように新たなものを生み出そうとされた。
安息を取ることで創造のわざからご自身に戻られて、自ら創造した人間への愛を喜ばれ、心を通わされた。

このことは、神が聖別を行う方法を私たちに開示するものである。
安息を覚えることと、聖なるものとすることの関連は絶対的なものだ。

聖別は、後から思いついて付け足したものではない。
それしかないといえるほど、物事の本質に関わることだった。

神が安息日を聖別されたのは、その日に休まれたからだ。
休むことで聖なるものとされたのである。

神が創造のわざ、特に人の創造を完成されたのをご覧になってそのことを喜ばれたように、また出エジプトに、神が「休んだからである」と安息のことが書かれているように、この聖なる安息の時は、神が「なさっていたわざを完成し」、「ご自身のかたちとして創造された」人を、神の聖さと最高の「栄光にあずかる者」としてくださる時なのである。

神は、ご自身が充足と愛の内に休まれる時と場所を聖なるものとされる。
真の聖さを成すものとは神のご臨在であって、この臨在は自らを啓示し、人の内に入り、人を所有するのである。

私たちは、旧約聖書に書かれた歴史に目を向け、何が聖なるものであるか次第に明らかになっていくのを学んでいくと、常にこの真理に出会うだろう。

天におられる神によって、地にある神の宮によって、神の愛する御子によって、聖霊を通して神を信じる者によって、どこにおいても聖さは、人間の行いや状態ではなく、神が来られるところから常に来るのだということを知るのである。

みことばの深遠な意味において、神は安息を取った場所を聖なるものとされる。
新約聖書の啓示によって私たちが聖なるものとなる方法を学ぶとき、自分たちのもっとも初期に、もっとも深く学ぶ教訓の一つを見出すのだ。

私たちは神の安息に入るにつれて、神の聖さにあずかる者となるのである。

アンドリュー・マーレー


人は自分の周りに安息を求める。
神は、人の内に安息をお与えになる。

E・P・C


ああ、主なる神よ、我らに平安を与えたまえ。
我らにすべてのものを与えてくださっているのだから。

安息の平安、安息日の平安。
そこには、終わりはない。

あなたによる安息、永遠のいのちの安息を我らに与えたまえ。
なぜなら、あなたは今我らの内に働いておられるように、我らの内で休まれるからだ。

あなたのみわざが我らを通してなされるように、あなたの安息も我らを通してなされるからである。
アーメン。

ヒッポのアウグスティヌス


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