2020年1月8日(水)の手紙

2020年1月8日(水)


『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』ヨハネの福音書3章6節


私たちクリスチャンは、あまりにもしばしば深刻な思い違いをしている。
救いは我々に自由にもたらされているが、勝利は自分たち次第なのだ、と。

私たちは、救いを得るために、自分のいかなる功績も働きも加えることはできないことを知っている。
ただ十字架のもとに来て、主イエスを自分の救い主として受け入れさえすればいいのだ。
これが福音である!

私たちは、働きによっては救われないことはわかっているのに、罪を聖められるためには救われたあとによき働きを行わなければならないと思いこんでいる。
すなわち、働きによっては救われないが、勝利を得るには働きをよりどころとする必要があるというのだ。

ここで言っておきたいのは、あなたは働きによって『救われた』のではないのと同様に、働きによって勝利するのではないことだ。
神は、あなたは「良いことを……実行できない」と言い切っておられる。

キリストはあなたのために十字架の上で死なれた。
そして今、あなたのためにあなたの内で生きておられる。
肉による者は肉であり、神は肉から来たものはすべて拒絶される。

ところが、 救いはキリストの十字架上の身代わりの死によるものなのに、私たちは人生の勝利を求めて、正しいことを行うことを考え、正しいことを実際に行い、正しいことを行うことを期待すべきだと通常は思いこんでしまう。

しかし私たちは、正しいことは『何ひとつ行えない』のだということを理解しなければならない。
勝利は神からふんだんに与えられるものなのだから!

ウォッチマン・ニー


勝利はクリスチャンの権利である。
呼吸する空気と同じようにまさしくクリスチャンのものだ。

しかしながら、理解しなければならない条件がいくつかある。
自分自身をキリストとともに王座についた者とみなさなければならない。

神ご自身の聖いことばに従って自分のことを、主イエスとともに十字架につけられ、死んで「キリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされ」、主であり救い主であるイエス・キリストと「ともに天上に座らせ」られる者として自分を見なければならないのだ。

これなくしてはどれほど奮闘し祈ったとしても、そのクリスチャンは敗北せざるをえない。
だがこの状況においてなら、彼を「愛してくださった方」、彼のためにご自身を与えてくださったお方によって「圧倒的な勝利者」となるのである。

F・J・ヒューゲル


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