2020年1月23日(木)
『わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何 一つ忘れるな。』詩篇103篇1節~2節
すべての自然は私たちに、主をほめたたえよ、と促しているのではないか。
もし沈黙したままでいたら、私たちは字宙の中で例外となってしまうだろう。
雷は、進軍する神の軍隊の太鼓のように轟いて、神を賛美してはいないか。
山々は、頂の森の木々が敬慕のあまり、枝をゆらして神を賛美してはいないか。
稲妻は真夜中の闇に、炎の文字で神の名前を書き記してはいないか。
地のすべてが声を上げてはいないか。
私たちは沈黙したままでいるのか、いられるのだろうか。
チャールズ・スポールジョン
すべての霊的な行いの中で、もっとも神に栄光を帰するのは、神をほめたたえることだ。
そこには単に感謝をささげる以上のことが含まれている。
主をほめたたえるとは、主への賛美を言葉で語ることにほかならない。
それはまた、主をあがめる態度をとることでもある。
「賛美する」と訳される言葉は、「ひざまずく」を意味する言葉と関係がある。
だから、主を賛美する人はただ口を開くだけではない。
神に対してひざまずくのだ。
賛美することは、神に帰すべき敬意を表すことである。
神を賛美するために唇を開き、神を崇拝し、あがめるために膝をつくからだ。
エリヤが、 主の火によって大勝利を収めたので神をほめたたえるために「カルメル山の頂上に登」ったとき、アハブ王は「食べたり飲んだりするために上って行った」が、エリヤが望んだのは賛美をささげることだけだった。
エリヤがどんな言葉を口にしたかは語られていないが、「地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた」と書かれている。
私たちの中には何らかの理由でこのとおりに行うのは無理だという人もいるだろうが、彼はそうしたのだった。
まだ若くて柔軟性に富んでいる人はぜひ試してみるといい。
しゃがんで膝の間に顔をうずめれば、神の前にエリヤがどれほどおのれを低くしたかがわかるだろう。
それはただ単にエリヤが「感謝します、主よ」と言いたかっただけではない。
彼はもっとも深い意味で、主を賛美したかったのだ。
私たちが主を賛美すること… それ以上に、神に帰すべき栄誉をささげられるものはない。
これは単に感謝をささげることだけではない。
神が成してくださったことだけでなく、神が神であられることのゆえに神をあがめ、神の真の偉大さを賞賛し、神を礼拝するという、類いまれな行いをも含んでいるのである。
J・アレク・モッツァ
「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた」列王記第一18章42節
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