2020年1月10日(金)の手紙

2020年1月10日(金)


『私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。』ヨブ記42章5節


親愛なる友よ、「耳で聞いて」神を知ることと、「この目で見て」神を知ることには非常な違いがあることを理解しようではないか。

ヨブは、神についての自分の過去の知識は耳によるものであること、すなわち、その性質として間接的な情報によるものであり、それゆえ十分に親密で個人的に経験したものではなかった、と告白している。

霊的に知るというよりは頭の中で考えた観念的なもので、そうした知識は不適切きわまりないものだった。
それは人を謙虚にさせずに思い上がらせるからだ。

聞くだけで神を知ることは、人をひとかどの人物にする。
だが見ることで神を知ることによって、人は取るに足らぬ者となり、ちりや灰にまでなってしまう。
これはまさにヨブが体験したことだった。

主から苦しみに満ちた扱いを受けたことで、ヨブはついに神を見た。
主による苦しみを通して、彼は神とのきわめて近い個人的な出会いを果たしたのである。

苦しみによって神と出会うことはいいことだ。
私たちの問題を解決するのは神であるが、それは言葉による説明ではなく、神の出現によるものだ。

私たちの問題は神を見たときに解決する。
なぜなら私たちが神を見るとき、自分の抱えている問題を気にするよりも、『自分自身』が問題であることのほうが気になってくるからだ。

その結果、私たちはおのれを嫌悪し、ちりと灰の中で悔い改める。
自分を捨てることで、もっと神を受け取ることができる。

まさにそのことを、バプテスマのヨハネは次のように言い表している。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」。

私たちが何ものでもなくなるなら、神はすべてになられるのである。

スティーブン・カウン


その道が一万倍も辛く困難なものであっても、主がおられれば、私たちにはそれで十分なのだ。

ジョージ・V・ウィグラム


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