2019年9月13日(金)の手紙

2019年9月13日(金)


『確かにこの慕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この慕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。』コリント人への手紙第二5章4節


天国の栄光を想像し誤想しているときであっても、時にふと死のことが脳裏に浮かび、心が滅入ってしまうことがあります。

冷たい川底の暗闇に降りて行くこと、肉体から魂が引き離されること、そして、この地上の幕屋を放棄することは、容易なことではありません。
死はときどき恐ろしい様相を帯びるからです。

使徒パウロでさえ、恐れおののきつつ「確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。
それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。
死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです」と言います。

死は苦い薬のようにも思われます。
しかし、もし死が死の棘を取り除く勝利に呑まれなければ、死は耐えがたい苦々しい時となるでしょう。

死に関して憂酸な考えをもつのは、主イエスが私たちとともに、そして、すぐ近くにおられることを忘れるからです。
このことに同意できますか。
主イエスが病の時に床を用意してくださり、最後の厳かな時に私たちの傍らに立ってくださるのを、もし信仰の目をもってしっかりと見つめることができれば、私たちは鉄の門を安全に通り過ぎることができるのです。

死を違った光の中でとらえたいとは思いませんか。
かのアイザック・ウォッツはそのことをこう述べます。

「おお、もし主がおいでになり、お会いしてくだされば、私の魂はすぐさまその翼を伸ばします。
そして、死の鉄の門を恐れることなく飛び越えます。
死が通り過ぎるとき、恐怖を感じることはありません。

主イエスは綿毛の枕のように柔らかい、
死の床を用意することがおできになる方です。
私が頭を主の胸に横たえると、
主はそこで、私の命に、
新たな息を優しく吹き込んでくださいます。」

アイザック・ウォッツ(167~1748年)
賛美歌作者。
ロンドンのマーク・レイン独立派教会牧師であったが、1703年以降、健康がすぐれず、1710年に引退した。
彼の賛美歌は力強く、しかも、平静な信仰を反映しており、礼拝における音楽の使用が疑念をもって見られていたが、賛美歌の歌唱を強い信仰の力とすることに貢献した、という。
『オックスフォードキリスト教辞典」参照)
日本の賛美歌にもいくつか採用されている。

God Bless You!!


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