2019年8月18日(日)の手紙

2019年8月18日(日)


『父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。』ヨハネの福音書17章24節


神の民は多くの人に愛される人たちです。
ですから、どんな場合でも、人々はその死を悲しむべき損失と考えます。

もし私に不死を与える能力があれば、彼らを死に追いやることは決してありません。
しかし、彼らから天国への入国権を奪うことは残酷なことです。
亡くなった人のことを思うと、どんな人も、この地上にもっと長くとどまっていてほしかったと願うはずです。

親しかった人たちを失うことが耐えがたい苦痛であることは、だれにとっても当然のことです。
聖徒たちの死が私たちに深い悲しみを与えるからです。彼らは愛する聖徒たちの信仰を豊かにする能力を備えていました。

私たちは彼らを失い、彼らから恩恵を受けられなくなったため、貧しくなってしまいました。
しかし、彼らはすでに召された多くの聖徒たちの群れの中に加わり、永遠の安息に入っているのです。
むしろ、そのことを喜びましょう。

私たちは悲しみでいっぱいですが、主キリストは喜んでおられることを忘れないでください。
主キリストは、「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。
わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。
わたしの栄光を、彼らが見るためです」と祈られました。

神の民が一人、また一人と天国へ到着するたびに、主イエスはこの出来事をこの祈りに対する答えと見ておられます。

私たちは悲しみます。
しかし、主は喜んでおられるのです。
彼らの死は私たちの目から見れば大きな痛みです。
しかし「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い」のです。

涙を流すことはだれにでも許されています。
そのような状態にあっても主にある信徒は、信仰と希望の光の中で大いにきらめき輝かなければなりません。

「イエスは涙を流された」のです。
しかし、主は決して不平不満を口にすることはありませんでした。

私たちも嘆いてよいのです。
しかし「望みのない他の人々のように」嘆くことがあってはなりません。
愛する者が天に召されるときには、私たちには大いに喜ぶことができる理由があるのです。

死はそれ自身で尊いものではありません。
むしろ、悲惨です。
神の御手による最高の作品がばらばらになった状態を見ること、また、人間の体の中にあ神の巧みな刺繍作品が破壊され、不潔になり、腐敗するのを見ることは、神ご自身にとっても心痛むことです。

しかし、神を信じる者にとっては、死ぬことは死ではありません。
死はこの世から父なる神のおられるところへの出発であり、神の国への入国だからです。

God Bless You!!


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