2019年8月12日(月)の手紙

2019年8月12日(月)


『イエスは涙を流された。』ヨハネの福音書11章35節


ラザロは死んだのです。
しかし、主イエスは彼をよみがえらせるために出かけようとしておられました。

ラザロのよみがえりのときは目前に迫っていました。
しかし、主イエスは涙を流されました。

もし信じれば友人がよみがえる、また、もし信じるなら、安心であり、幸いであると、たびたび告げられます。
そんなときは泣く必要はありませんし、また泣くべきではありません。
当然のことです。

しかし、主は涙を流し、泣かれたのです。

ですから、主に倣うことによって間違いを犯すことはあり得ません。
主イエスはラザロの死が神の栄光のためであることを十分に知っておられました。
主は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました。

しかし、それでも主は涙を流されたのです。

神の栄光を現すべきときに、我を忘れて泣くことは恥ずべきことだと、これまで考えたことがありますか。
しかし、これは間違ったことではありません。
もしそうであれば、主イエスは同じような状況の中で泣くことはなかったでしょう。

危険な密輸品とみなされていたかもしれない涙が、今や聖なる領域に入るための無料の入場券となったのです。
なぜなら、主は涙を流されたからです。

友よ、あなたは泣いてもよいのです。
なぜなら主イエスも涙を流し、泣かれたことがあったからです。

ラザロのその後の幸いを十分承知し、そのよみがえりを前もって知り、またこの死を通して神の栄光が現されることをも十分確信していたにもかかわらず、それでも主は涙を流されたのです。

主キリストがお許しになっていることを非難してはなりません。
もしあなたが泣くことができ、神に感謝できるのであれば、そして、神の御前で自分が何者であるかを理解しているのであれば、涙を流し、泣くことは罪ではありません。

悲しみに満たされたときには、大いに涙を流しなさい。
そして、泣きなさい。
これは祝福に満ちた命令なのです。

聖霊の導きを豊かにいただきましょう。
主が悲しむ人の心にそのことをしっかりと刻んでくださるように祈ります。
あなたは悲しみ、そして、いくらでも涙を流してよいのです。

主イエスご自身が涙を流し、泣かれたからです。

God Bless You!!


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