2019年7月9日(火)の手紙

2019年7月9日(火)


『だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』マタイの福音書13章30節


麦を刈る仕事は一連の手順に従って進められます。
それはちょうど、聖徒たちが天の倉に集められて行くのと同じようにも見えます。

次々と親しい信仰者が天に召されて行きます。
しかし、そのたびに愛する友たちは大いなる喜びとともに天に召されて行っている、と私はよく耳にします。
神に栄光あれ!

神の民は平安のうちに召されるからです。
充実した人生を送った人が、安らかな死を迎えることができる、これは喜ばしくも、また幸いなことです。
それはだれもが望むことです。

ですから、勝利に満ちた死は信仰篤く生涯を全うした信徒の一つの証明なのです。

刻々と聖徒たちは天の倉に取り入れられます。
そのところこそ、私たちが到達したいと心から願って、いる到達点です。

聖徒たちの刈り入れの知らせを聞くとき、心に痛みを感ずることは決してありません。
というのは、主がいずれかのときに私たちを主の倉に納めてくださることを、私たちも望んでいるからです。

もし畑の小麦が話すことができれば、みなこう言うでしょう。
「私たちが命を与えられていること、成長することの究極の理由と目的は倉に取り入れられることです」と。
なぜなら、野外には霜が降りる夜、火の照る日、露の降りる日、雨の日もあるからです。

農民が小麦を育てる過程とその目的は、最後に収穫物を倉の中に納めることです。
それらは袋に詰められて倉に蓄えられ、安全に保管されます。
そこには露もなく、霜も、高温も、干ばつも、湿気もありません。

一旦倉に入れられると、収穫物に加えられる危険はほとんどなくなります。
小麦は納められるべき場所に納められ、安全に倉の中に保管されるからです。

父なる神の倉としての天の国のことを考えると、私の心は喜びに満たされ、心は躍り出します。
というのは、そこは最も安全な場所であり、永遠の休息の場所であり、主キリストの住まいであり、私たちはついにはそこに導かれるからです。

倉に納められるということは、収穫物を納めるための保管場所が与えられることを意味しています。
そのときは、大いなる喜びのときでもあるのです。

地上の収穫物が十分に保管されている倉庫について不満を口にしたり、不安に陥って座り込んでしまったりしたということなど、聞いたことがありません。
むしろ、そのことを聞くと、人々は手を叩いて喜び、ダンスをして飛び跳ね、力強く喜びの声をあげるはずです。

すでに倉に取り入れられた人たちのためにも、同じような行動を起こそうではありませんか。
彼らの墓の前で快い、そして、力強い賛美を歌おうではありませんか。
そして、死の苦しみは間違いなく過ぎ去った、と力強く信じようではありませんか。

God Bless You!!


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