2019年7月12日(金)の手紙

2019年7月12日(金)


『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』マタイの福音書16章24節


あなたが背負っている十字架があなたの肩に重くのしかかっているようには感じませんか。
もしそうであれば、それはあなたが主に似た者となっていることの印です。
しかし、まもなくあなたを助けるためにだれかがやって来ます。

「兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。
彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた」と
あるように、神はどこかにあなたのためにシモンのような人を備えておられるのです。

主に祈り求めなさい。
そうすれば主はあなたのために友を見つけてくださいます。

十字架を背負うことは、この上なく祝福に満ちた働きであると、このときシモンは理解したと私は信じています。
兵士たちが無理に十字架を背負わせたとき、それによってシモンは主イエスに近づくことができたのです。

十字架を無理に背負わせられることがなければ、シモンは自分勝手な道を歩んでいたかもしれません。
あるいは群衆の中に迷い込み、平凡な一市民としてその生涯を歩んでいたことでしょう。

しかし、今や彼は主イエスの最も近くにいることになったのです。
兵士たちが十字架をシモンの肩に載せたとき、彼は主を見つめ、また、茨の冠、血の汗、裂傷、そして打ち傷を非常に間近で目にしました。

類まれなそのお顔には、苦痛と、苦悶が刻まれていましたが、そこにはさらに潔白と、悲しみを伴った愛とが威厳をもって混在していたのです。

もしシモンが十字架を背負うことを求められなかったとすれば、そのような主のお顔を見ることも、これほど間近に人の子の姿を見ることもなかったはずです。

ですから、私たちも主のために大いに苦しみ、懸命に働くことができれば、何度でもすぐ間近で主にお会いすることが可能なのです。

この十字架が、主キリストが十字架へと歩み続ける中でシモンの全精神をとらえたのです。
あなたはそれが理解できますか。
もし主イエスが十字架の前の部分を背負い、シモンがその後ろの部分を背負いつつ主に従って行ったとすれば、シモンの足は主イエスが歩むその歩みに合わせて、ついて行かざるを得なかったことでしょう。

親しい友よ、十字架は主の歩みの中に私たちをしっかりと留め置くための最も良い道具なのです。

信仰者のみなさん、あなたがたが今日、このとき、十字架を背負うことを余儀なくされ、主とのより密接な、そして、さらに主イエスとの豊かで密接な交わりをもつことができるようにと私は祈っています。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われているからです。

God Bless You!!


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