2019年6月16日(日)の手紙

2019年6月16日(日)


『わたしはよみの力から彼らを臆い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。』ホセア書13章14節


もし主イエス・キリストの再臨が遅れているのであれば、私たち信徒は死を迎え、墓に葬られ、そのまま朽ち果てることは確かです。
この体が母なる大地に溶けて戻ることを防ぐために、高価な棺に納められることを私は望みません。
私にとって、この肉体を元の大地に速やかに返すことは、最善かつ最も神聖なことに思えるからです。

私たちの肉体が塵になるまでには多くの変化をします。
木の根よもこれと同じ経過をたどるかもしれません。
あるいは、この塵は草や花に変化し、そして、動物たちの餌となるかもしれません。
そして、風によって何千マイルも飛ばされ、あるいは原子から原子へと分離され、骨はばらばらに分解されることでしょう。

これが私たちの肉体に実際に起こる現象であり、結果です。

しかし、塵からなるこの私たちの肉体がどうなろうと、主が復活なさったと同じように確かに、私たちには理解できない美しさと栄光に輝く状態で復活するのです。
死んだ神の子たちの体が最後に生き返るときが来るのです。
閉じてしまった目、まさにその目が栄光あふれる王なる主を目の当たりに見ることになります。

臨終のときに、か細いことばさえ聞くことのできなかった耳が…その耳自身が…永遠の快い旋律を聞くことになるのです。
冷たくなった心臓は新しい命をもって再び動き始め、復活の時、歓喜をもって躍動するのです。

死を恐れてはなりません。
それはいったい何ものですか。
墓は浴槽と同じようなものです。
私たちの体は、エステルのように栄光あふれる不死の王なる主を信じているゆえに、新鮮な香料とともに芳香のある、新鮮なものへと変えられるために一時の間、まるで浴槽に入るかのように墓に埋葬されるだけなのです。

また死は衣装箪笥のようなものです。
しばらくの間そこに衣服が保管されますが、しかし、必要なときにその衣服は新しくされ、清潔な状態でそこから取り出されるからです。

God Bless You!!


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