2019年4月11日(木)の手紙

2019年4月10日(木)


『あなたのしもベに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください』詩篇119篇17節


ダビデはここで、喜んで神への義務を果たし、神に仕えることを大いなる喜びと考えています。
また、自分は神に対して多少の貢献をしているのではないかと考え、神に嘆願をしています。

しかしながらこの場合、自分の願いが必ずかなえられなければならない、と主張しているわけではありません。
ダビデは恩恵を求めただけであり、当然の報酬を求めてはいないからです。

私たちの報酬は、ただ神のあわれみによってのみ与えられるのであって、その働きによるものではありません。
私がどれだけ神に仕えたのかによってではなく、ただ神の寛大さによって報われるのです。

「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。
それなのに、私はここで飢え死にしようとしている」と放蕩息子は嘆きました。
しかし、神はご自分の家族の一人をも飢え死にすることを許しません。

たとえ主が、しもべの最も小さな者に対するように私たちを扱うことがあるとしても、それでも私たちは大いに満足を味わうことができます。
神の嗣業を約束されている人たち、その家族、そして永遠の命の継承者たちはすべて神の真実のしもべたちなのです。

ダビデはあまりに貧しかったために、多くのものを求めました。
しかし、その功績はわずかであり、そのようなものが与えられるなどとは考えもしませんでした。
しかし、ダビデは神の恩恵に自らをゆだね、必要とする多くのものを求め、主と、その偉大なあわれみに信頼したのです。

ある人が、「おお、主よ、私にあふれるほどの豊かな恵みを与えてください。
わずかの恵みであれば必要ありません。
わずかの恵みだけでは何の役にも立たないからです」と祈ったように、ダビデもあふれるほどの豊かな神の恵みを祈り求めたのです。

主なる神の豊かなあわれみがなければ、ダビデは生きることができませんでした。
聖徒が生き続けるためには豊かな神の恵みが必要です。
命さえも私たちのような価値のない者にとっては神の寛大な賜物なのです。

主のみが私たちの命を支えることができる方であり、そして、罪によって失ったまことの命を守ることができるのは神の力ある恵みだけです。

生きたいと願うことは正しいことです。
生きたいと祈ることも正しいことです。
長命が神の恵みによるものであることもそのとおりです。

しかし、霊的生命が内に宿ることがなければ、その命は単に生きているというだけでしかありません。
ですから、霊的生命が主から豊かに与えられなければなりません。
それこそが神の恵みの偉大な働きであり、そして、そこにこそ神の豊かさが輝かしく示されるのです。

主のしもベは自分自身の力だけでは主に仕えることはできません。
主の恵みに満たされなければ、人は生きることも、主に仕えることも不可能です。
そのことを常に忘れてはなりません。

God Bless You!!


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