2019年2月20日(水)の手紙

2019年2月20日(水)


『この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。』ヨブ記19章27節


羊の群れの中で鳴るベルの音を聞きながら神の声を聴くことができ、牧場に群がる家畜の鳴き声の中や、愛する子どもたちのおしゃべりの中にあっても神の声を聴くことができる人は幸いです。

裕福は、神の明るい光を遮ってしまう多色入りの窓ガラスにたとえられます。
よく考えてみると、これはとても興味深い表現です。
青や深紅、そして金色が除かれることによって、ガラスの透明度は取り戻されていきます。
逆境によって薄い色合いや色彩、ほの暗さが取り除かれるのです。

そのようなとき、真実の意味で神が見え始めます。
物が欠乏しているときにこそ、かえってあわれみ深い神が以前より、よく見えるようになるのです。

言うまでもなく、豊かなときにも、神の声は聞こえてきます。
これは素晴らしい祝福です。
しかし、困難の中にあっても神は見えるのです。
これもまた大きな祝福です。

聖化された逆境は霊的な理解力を鋭くします。
悲しみの連続はむしろ霊的な力を呼び覚まし、おそらく他の方法では決して得られない感覚の鋭さと繊細さが与えられます。

私はこれらのことをある意図をもって述べました。
というのは、ある選ばれた聖徒たちは、もっと易しい方法で神に到達できるように導かれているからです。

しかし、私の考えでは、そういう人は非常に少数であり、稀な存在です。
ほとんどの人はこの鋭さと繊細さに欠けているため、主なる神を心地良く感じることのできる聖なる柔軟性を手にしたいときは、心の和らぎを必要とするのです。

あなたがヨブと同じような苦しみを経験しているのであれば、また、あなたが受けている苦しみが霊的に開かれた目で主を見られるようにしているのであれば、神の民は苦難の歩みをむしろ大いに感謝してよいのです。
いいえ、心から感謝すべきです。

ヨハネと同じ幻を見ることができるのであれば、だれもがパトモス島に行くことを望むでしょう。
そして、灰の中に座り、ヨブとともにこう叫ぶでしょう。
「この方を私は自分自身で見る。
私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない」と。

God Bless You!!


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