2019年2月1日(金)の手紙

2019年2月1日(金)


『彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」』列王記第一19章4節


なぜエリヤが「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と叫ぶほど落胆したかについて、若い人が理解することは困難かもしれません。

しかし、どんな人も年齢が進み、経験も豊かになるにつれ、多くの試練に遭遇するようになり、内的生活においても葛藤が深まっていきます。
というのは、私たちもエリヤと同じような状況に置かれることがあるからです。

なぜ神が、いにしえの神のしもべたちを、このような状況の中にとどまることを許されたのかについての理由は、年齢を重ねるにつれ、より深く理解できるようになるものです。

他の人たちがかつて歩んだ道筋を、自分も今歩んでいることに気づき、心休まる思いをしたことはありませんか。

そして、私たちは「私一人が主の預言者として残っている」と語ったときのエリヤのカルメル山での心境が理解できるようになり、なぜエリヤがバアルの預言者たちを殺したかについての理由を、いずれ悟ることができるようになります。

また、なぜエリヤがエニシダの木の下に来て座っていたのか、なぜほら穴に隠れたのかについても、自分自身がエニシダの木の下に座るとき、エリヤもかつてそこに座っていたことを思い起こすことによって、その背後にある深い理由を理解できるようになるのです。

私たちがほら穴に隠れなければならないとき、この偉大な預言者の行動を思い起こせば、豊かな慰めを得ることができるのです。

おそらく、あなたもエリヤと同じ祈りを祈ったことがあったはずです。
一人の聖徒の経験は、他の人にとって貴重な教訓となります。

詩篇の多くは(マスキールと呼ばれ、つまり教訓的な詩篇ですが)作者の経験そのものを記録しており、
それらは私たちの信仰に関する、ほかでは見いだせない貴重な教科書となっています。

もし聖霊の導きを受けることができれば、私は隣人に対して益となる助言を与えることができるかもしれません。

今後の歩みがどれだけ残されているかについては、あなたには何もわかりません。
しかし、それにもかかわらず、口が笑いで満ちあふれ、舌が賛美で満ちあふれるほどに、神はあなたのために祝福を用意し、蓄えておられるのです。

主はあなたのために大いなることを成し遂げてくださいました。
あなたは喜びに満たされます。

勇気を失ってはなりません。
心を強くしなさい。
主が再び来られるまで、忍耐をもって主に仕えなさい。
主の祝福が永遠にあなたとともにありますように!

God Bless You!!


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