2019年11月13日(水)
『ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」』ヘブル人への手紙13章6節
主が常に私たちの助け手であられるというこの事実こそ、私たちの信仰が確かなものにされる最も重要な要素です。
これまでの人生の歩みを振り返って、もし神が失敗したと思われることを見いだすことができるとすれば、私は信仰を放棄していたかもしれません。
これは自分の経験からはっきり言えることです。
私は神が不真実、あるいは冷酷であったという例を自分の人生の歩みの中に一つとして見いだすことができません。
正当な理由があれば、神を疑うことがあるかもしれません。
しかし、私は生きているかぎり、決して神を疑うことはないでしょう。
昨日、私は鳥龍の中の鳥をじっと見つめていました。
これらの小さな鳥たちは餌を与えてくれる飼い主に全く依存しています。
彼らは自分自身を養うことができないからです。
もしと水が与えられなければ死んでしまいます。
しかし、それでも鳥たちはそこにとどまり、力いっぱいさえずっています。
自分たちが依存的な存在であるという理由で、苦しんでいるようには見えません。
自分を養っている主人が餌を与えてくれないなどと不満を言うこともありません。
実はこれが私たちの姿です。
私は神に養われ、鳴いている鳥のような存在なのです。
おそらく私はどこでパンを手にいれ、次の説教をどのような内容にしようか、そして、大きな心配事や面倒なことがいつか起こるのではと思い巡らし、心を悩ませます。
しかし、なぜ私は面倒なことに出遭わなければならないのでしょうか。
鳥は長く自分を養ってくれている飼い主を疑うこともなく、この上なく平安に過ごし、声をかぎりにさえずっています。
これ以上の幸せはないと言わんばかりです。
鳥はそのようにして日々過ごし、生きています。
ですから、あなたや私もそのように生きてよいのではありませんか。
私たちは鳥よりはるかに優れた存在だと言われているからです。
しかし、時に私たちは、彼らの半分ほども必要な物を所有しているようには思えないのです。
主なる神はこれまで常に真実でした。
このことを疑ってはなりません。
もしある異常な試練がこの地から天国へ行く途中に待ち伏せているとすれば、むしろ、あなたは保護者であられる神からの特別の救助の手を見いだすことになるでしょう。
主は、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われました。
ですから、私たちは、確信をもって大胆に、次のように言うことができるのです。
「主は私の助け手。私は恐れない。
人が私に何ができるだろうか」と。
God Bless You!!
a:109 t:1 y:0