2019年11月1日(金)の手紙

2019年11月1日(金)


『私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。』ヘブル人への手紙6章19節


主にある信徒はたとえ極貧のどん底にあっても実は裕福なのです。

私たちは明日のことまで思い悩む必要はありません。
なぜなら、明日のことは明日が心配します、と言われているからです。

私たちは神の摂理の導きに自らをゆだねてよいのです。
野の草を装ってくださる方は、私たちをも装ってくださることを信じているからです。
野の花を装い、空の鳥を養ってくださる方は、神の子たちが飢え、裸足のままでいることをお許しにはなりません。

主にある信徒は、世の富に必要以上に関心をもつことはないはずです。
摂理の導きに身をゆだねることができれば、腕を組み、歌を歌うことさえできるようになります。

人影も見当たらず、真っ暗で、しかも今にも崩れそうな泥の堤の傍らを歩もうとも、美しい渓谷や豪華な土地や家が展示されている会場を陽気に散策することがあるとしても、私たちの心境が変わることがあってはありません。
また、揺れることも、もがき、あがくこともあってはならないのです。

私たちのただ一つの願いは神の御手に自らをゆだね、神以外の意志を知ろうとしないことです。
嵐がやって来ると、主キリストが「風を避ける避け所、嵐を避ける隠れ場」と言われる方であることに気づきます。
そして、気温が高くなると、主キリストが「乾ききった地にある、大きな岩の陰のようになる」ことに気づくのです。

私たちは深い海の中に錨を下ろし、安心して眠ることができます。
嵐が吹き荒れ、マストは軋み、肋材は損傷を受け、すべての釘が抜けるかもしれません。
しかし、それでも、私たちは主キリストが舵を取っておられるゆえに、安心して船の中で休み、眠ることができるのです。

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです」と言われているからです。

地は震えます。
しかし、そのようなときであっても私たちは「神はわれらの避け所 また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも」と告白できるのです。

God Bless You!!


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