2018年9月7日(金)の手紙

2018年9月7日(金)


『「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」』エレミヤ書8章20節


なんという痛切な嘆きでしょうか。
幾月も幾年も回復を待ちわびる病人が、絶望してそっと流す涙。

悩みに囲まれて、出口を見いだせない人の吐息。
残忍な外敵に踏みにじられた、神の民の嘆き。

このような絶望を聞いて、心動かされない人がいるでしょうか。
預言者エレミヤはさらに続いて語ります。
「私の民の…傷のために、私も傷つき…」。

が、その嘆きにも動かされない方がひとり。
生ける神です。

この8章で、神があたかも「わたしは彼らの嘆きにも動かされない」と言っておられるかのようであるのは、恐ろしいことです。

いったいそんなことがあり得るでしょうか。
神がそれほどまでも冷淡になられるのでしょうか。

神がなぜ、この嘆きに対しても冷淡であられるのか、その理由を主はお語りになります。
それは、彼らは救いを求めはするが、救い主を求めようとしないからです。

これが世の不幸のもとであるのです。
また、おそらく私たちそれぞれの人生の不幸もこの点にあるのです。

人は、内外の困難に直面して救いを求めはします。
が、神がこの世に送られた救い主、贖い主であるイエス・キリストご自身を求めはせず、この方に対しては心を閉ざすのです。

預言者エレミヤに、もうひとつのみことばがあります。
「だから、知り、見きわめよ。
あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを」。

それゆえ私たちは、救いを待つのではなく、救い主を待ちましょう。
主ご自身も、私たちの救い主になろうと待っておられるのです。

主よ。
あなたが必要です。
あなたを見いださせてください。アーメン

God Bless You!!


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