2018年9月24日(月)の手紙

2018年9月24日(月)


『弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。』ルカによる福音書11章1節


たわいもない願いと思ってはなりません。

あるとき、こう言った人がいます。
「若い時に英語をやっておけばよかった。
外国旅行の時に不便でね。
でも…、これでも結構、世界中を回ってきたのだ」。

これと同じ程度に弟子たちの願いを理解してはなりません。
「祈りができたらよいのに。
でも…、それがなくても、結構やっていける」。

彼らの願いは、助けを求める叫びでした。
「主よ。祈りなしには進めません。
でも、私たちは正しく祈れません。
助けてくださいますか」。

祈りのない人は、霧の中で無線が故障した飛行機のようです。
祈りのない人は、あらゆる悩みをひとりで身に負わなければなりません。
唯一の救助者に対して無線連絡もかなわないとすれば、それは困ったことです。

が、意外にも人はそれに気がつかないでいるのです。

祈りのない人は、神にとっては死人も同然です。
おそらくあなたも、愛する人のなきがらを前にしたことがあるでしょう。
もう一度ことばが交わせたらと思います。
が…、彼はもう、一言も話しません。

主は私たちの前に立っておられます。
主は私たちと重大な話をなさろうとするのに 私たちは話すことができません。
話せず、祈れません。
聖書はこれを、「死んでいる」と言うのです。

祈りのない人は、かげろうのようです。

やがてのさばきの日に、神の前に立つとき、神は仰せになるかもしれません。
「わたしはあなたを知らない。
あなたの口から一度として願いを開いたことはなく、感謝のことばを聞いたこともない。

ここに来なくてもよい。
さあ、わたしのいない所、あなたが自分で選んだ所へ行けばよい。地獄へ行くがよい」。

このことを知り、悟るならば、その人は、弟子たちの願いの切実さを理解することでしょう。

主よ。
私たちに祈ることを教えてください。アーメン

God Bless You!!


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