2018年9月21日(金)の手紙

2018年9月21日(金)


『すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。』マルコの福音書10章22節


イエスから何の慰めも与えられなかった男。

主イエスは大いなる慰め主です。
子どもの死の知らせを受けたヤイロに、「ただ信じていなさい」と言われて、それでヤイロは立ち上がりました。

失敗だらけの過去を嘆いて、主の足もとで涙を流す罪の女。
主は彼女に「あなたの罪は赦されている」と仰せになりました。
何という慰めでしょうか。

主はご自分の死のきわにも、十字架にかかった盗賊を慰めてくださいました。
人々は、今日に至るまで救い主の慰めをたたえてやみません。

ところがここにひとり、イエスが慰めも与えずに去らせてしまわれた男がいるのです。
恐ろしい光景です。

若者はゆっくりと去って行きました。
彼は真剣な問題をかかえてみもとに来たのですが、イエスが、従って来なさいとお命じになったときに、対話は終わりました。

主は全く同じやり方で、ペテロを舟から、マタイを悪徳金融業から、呼び出されました。
そして彼らはみな従って行ったのです。

けれども、この若者はイエスの招きを拒みました。
話合いは物別れに終わったのです。
もはや一言も交わさずに、若者は悲しみながら立ち去りました。
彼は漠然と、生涯の大切な機会を逃がしたのだと感じました。

さて彼は立ち去りました。
イエスは見送っておられます。
もはや慰めのことばもありません。

主に願いさえするならば、イエスから慰めを受けることができます。
主を離れては、慰めはどこにもないのです。
イエスなしに生きるならば、私たちは永遠に慰めなき民です。

主とともに歩む。
そうすれば私たちは叫ぶことができます。
「主は光、慰め、恵み…」。

主よ。
ご自分に添えていっさいのものをお与えくださることを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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