2018年9月19日(水)の手紙

2018年9月19日(水)


『こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方はどういう方なのか」と言った。』マタイの福音書21章10節


このイエスはどういう方なのか。
これは大問題です。

この問いが発せられると、たちまち混乱が生じます。
「彼は私たちと同じ人間だ」
「彼こそは理想的な人間だ」
「彼の謙遜の教えはヨーロッパの不幸だ」
「彼は神の父性愛を見いだした宗教的天才だ」
「彼はまことの人間の原型だ」

「彼は…」
「彼は…」。
これでは、続ける元気もなくなって、イエスへの信仰までも投げ出したくなります。

しかし、ここに注目すべき、ただならぬみことばがあって、主から逃れようとする私たちを、柵のようにふさぎます。

「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」。

永遠のいのち。
それこそは神からのいのちであり、私たちのたましいの慕ってやまないいのちです。
このいのちは、いかなる死によっても奪われず、また、「この方は、どういう方なのか」という問いの答え如何にかかっているいのちです。

「この方」は、霧の中から突然に姿を表わすかのように、初めはぼんやりとしか見えません。
彼は滑稽なろばにまたがり、それでいながら威厳をもって進んで行かれます。
やがて少しずつその姿を現し、今や彼は処刑される犯罪者のように、青ざめて血を流します。

それなのに、神々しい光を放ってさえおられるのです。
「この方は、どういう方なのか」。

「この方」への信仰を表して、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と言ったのは、まことに聖なる時でした。

イエスはこれに答えて言われます。
「あなたの理解力ではなく、天にいますわたしの父が、そのことをあなたにお示しになったのです」。

主よ。
私たちに光をお与えください。アーメン

God Bless You!!


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