2018年9月12日(水)の手紙

2018年9月12日(水)


『このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』エゼキエル書21章5節


なんという恐るべきみことばでしょう。
意味を知れば、人はさらに狼狽するでしょう。

これは狂信的な預言者の、神に関する自論ではなく、神ご自身が、「主であるわたしが…」と言われるのです。

このみことばは神の峻厳を語ります。
そうです。
神はあらゆる「肉の性質」の仮借なき敵です。

「肉」とは、生まれながらの人間の、砕かれない状態を表します。

肉の性質はさまざまな形で現れます。
罪の奴隷の厚かましさ、ほしいままなる衝動、飼いならされた自己義認、ひそかなうぬぼれ…。

この性質は、人が「私」を中心に据えて、気分のままに突っ走るという、ごく普通のやり方に、また、愛のない冷淡、評判のための慈善に現れます。
しかも、これらすべてがとても教会的に飾り立てられさえするのです。

私たちは どう見せかけようとも 生まれながらに「肉の傾向」を持っています。

ローマ人への手紙は言います。
「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。
…肉にある者は神を喜ばせることができません」。

生まれながらの性質に対しては、神は仮借なき敵です。
きょうのみことばは、神がこの生まれながらの性質を殺してしまわれる、と語るのです。

もしも私たちが神のものとされたいなら、この性質を死なせたいと願わなければなりません。
私たちはそれを願うでしょうか。

聖書はその方法を教えます。
自分自身をイエスとともに十字架へと差し出すのです。
主とともに自分を死なせ、聖霊によって、新しいいのちへと進む。
これがその方法です。

「御霊による思いは、いのちと平安です」。

「愛する主、私たちをあなたの死にお加えください。
あなたとともに釘付けてください。
御国を継ぐのにふさわしくないすべてを」。アーメン

God Bless You!!


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